【ノムさん追悼】監督人生の心残り「甲子園優勝」の夢 10年前本気で語っていた思い

2020年02月12日 16時30分

港東ムースで中学生を指導する野村さん

 プロ野球、社会人、リトルシニア…あとは高校野球だけ――。“名監督”として鳴らした野村克也さんの、最後の夢は高校球児を率いて甲子園で優勝することだった。プロ野球で4球団の監督を務め、社会人ではシダックス、リトルシニアの港東ムースでもチームを指導していた野村さん。だが、口癖が「高校野球の監督をやりたい」だったことは、あまり知られていなかった。

 野村さんは南海(現ソフトバンク)で現役バリバリだった1970年、34歳の若さで兼任監督に就任。78年からロッテ、西武と渡り歩き、80年に45歳で現役を引退した。その後は90~98年にヤクルト、99~2001年は阪神、06~09年に楽天の監督を務めたのは周知の通り。いずれもそれまでBクラスだったチームを率いて、リーグ優勝5回、日本一3回という輝かしい実績を残した。

「監督として最後の年となった09年は楽天創設以来初のAクラスとなる2位となり、クライマックスシリーズに進出。にもかかわらず退任となり、本人は不満げなコメントを残していたが『阪神を解任同然で辞めた自分を監督に据えてくれた楽天には感謝している』と言っていた」(野村氏を知る関係者)

 楽天を辞めた時はすでに74歳だったが、野村さん自身はまだまだ「監督をやりたい」と意欲を持っていたとか。「でも、プロ野球の監督ではなく『夢としては、高校野球の監督をやりたい』とおっしゃっていたんです」(同)

 13年に学生野球憲章が大幅に改定され、元プロ野球関係者が高校野球の監督になる道は大きく開かれたが、楽天監督を退任した09年は、その道は閉ざされていたも同然だった。

「昨年12月には、マリナーズ会長付特別補佐兼インストラクターのイチロー氏が学生野球資格回復研修を受け、大きな話題となったが、野村さんも楽天を辞めた直後にこの制度があれば、受けたかもしれない。それくらい『高校野球の監督をやりたい』と、本気で言ってましたから」(同)

 確かに野村さんの監督歴は、プロ野球に限らない。阪神監督を退任した約1年後の02年11月には社会人野球・シダックスの監督に就任。楽天監督に就任する直前の05年11月まで務めた。また現役引退後、ヤクルト監督に就任するまでの間、評論家として活動する傍ら、リトルシニアの港東ムースの監督として中学生を指導したこともあった。

「このチームはサッチーこと沙知代夫人がオーナーを務めていた縁で監督を務めた。中学、社会人、プロと、さまざまなカテゴリーの監督を務めたのも野村さんしかいないでしょう。そのうえ、もし高校野球の監督も務めていたらどうなっていたのか? 野村さん自身、高校の時に甲子園に出場していないから、余計に『監督として優勝したい!』と、甲子園を夢見ていたようだ」(同)

 野村さんといえば、17年に亡くなった妻・沙知代夫人も有名だ。“悪妻”と言われ、世間から猛バッシングを受けたこともあるが、野村さんは「俺にはこの人しかいない」と言って、別れる気などサラサラなかったという。

「野球以外のことは全くできなかった野村さんは、すべて沙知代さんに任せっきりだった。ホントに仲が良くて、沙知代さんが亡くなる直前まで『手をつないで寝ているんだ』と言っていたこともある」(出版関係者)

 02年には、沙知代夫人とのことも記した著書「女房はドーベルマン」(双葉社)を出版した。野村さん自身が決めたタイトルには、こんな思いを込めていたという。

「ドーベルマンは確かによくほえるけど、主人にはものすごく忠実な犬。野村さんは『沙知代もいろいろうるさいけど、主人である自分にはものすごく尽くしてくれた』と言っていた。このタイトルは皮肉ではなく、愛情の裏返しだったんです」(同)

 これほど信頼し合った2人。今ごろ、天国での再会を喜んでいるのは間違いないだろう。