【ノムさん追悼】野村ノート海外流出 伊勢孝夫氏が明かす秘話

2020年02月12日 19時00分

1995年10月、日本シリーズ対策ミーティングで選手に訓示する野村監督。古田(前列左)、稲葉(同左から3人目)らはノートを手に参加

 プロ野球南海(現ソフトバンク)で戦後初の3冠王を獲得して捕手兼任監督を務め、ヤクルト、阪神、楽天でも指揮を執り3度の日本一に輝いた野村克也さんが11日午前3時半、虚血性心不全のため死去した。84歳だった。「月見草」「生涯一捕手」「ID野球」「再生工場」と多くのフレーズに彩られた野球人生。独特のボヤキ節で親しまれた「ノムさん」の訃報に接し、ヤクルト監督時代の打撃コーチで本紙評論家の伊勢孝夫氏が「野村ノート」の秘話を明かした。

 野村さんのID野球はまさに「目からウロコ」だった。野球というのはそこまで頭を使ってやらないといけないものなのかと…。

 ヤクルトの監督に就任し、1990年の米国・ユマでのキャンプ初日。ミーティングで野村さんは打撃コーチの私に「俺は現役時代にお前を抑えた記憶がない。どうやってヤマを張っていたんや」と言った。ヤマ張りとは読みを当てにいくこと。何も考えずに来た球を打っていた私は「ヤマを張ったことはないです」と答えるしかなかった。私が配球を読んで打っていると思っていたようで、その裏をかいたつもりが表になっただけ。それで南海戦ではよく打てていたのだろう。「お前というやつは…」とあきれさせてしまった。

 そこからホワイトボードに書かれる打者心理、バッテリー心理、配球の読み、備えの大切さを必死にメモした。ヤクルトの選手全員に手書きで書くようにさせた。弱者が格上に対応するにはデータが必要ということ。みんな真面目にやっていたが、長嶋一茂だけは漫画を描いていたような…。野村さんは後年に阪神でも「野村の考え」を伝えたが、印刷で冊子にしたもの。配布じゃなく、手書きで選手にやらせていたら覚えるし、結果は違っていたかもしれない。

 驚いたのはその阪神時代の「野村ノート」が韓国にも出回っていたことだ。私が2008年に打撃コーチとして韓国のSKに行ったとき、それを持っている者がいて解説を頼まれた。私のノートと合わせ、選手に説明したことがあった。阪神の関係者が誰かに渡したものが、流れ流れて韓国に渡ったのだろう。

 ヤクルト時代のキャンプでのミーティングは毎日1時間。めったにない博多に遠征に行っても、晩飯の後で2時間やったり…。とにかく話好きの人だった。宿舎での朝飯でも野村さんのテーブルしか空いてないと座るしかない。そしたらそこからコーヒーだけで2時間。前夜の試合のこと、昔話、王さん、長嶋さんのこと、門田のこと…。「門田の野郎、かわいがってやって本塁打王も取って、200万の時計をやったのに、逆らいやがって」なんておもしろおかしく話す。まあ、いろんな勉強をさせてもらいました。

 ヤクルト時代に野村さんとは92、93年に西武、95年のオリックスと3度の日本シリーズを経験させてもらった。野村さんが頭を抱えていたのは、93年の日本シリーズで西武捕手・伊東勤(現中日ヘッドコーチ)のリードが第3戦で急に変わったこと。打者有利なカウントになると真っすぐが来ていた傾向がなくなり、しかも打者ごとに変えてきた。野村さんも焦って「すぐにデータを出せるか」と言ってきたほどだったが、さすがにそれは無理な話。伊東もしたたかだった。

 大学ノート2冊分の野村さんの教えは今も私の元にある。もう、この“原本”は私くらいしか持っていないんじゃないか。このおかげでいろんなところで野球を指導させてもらったし、飯を食っていくことができた。野村さんには感謝しかない。もっともっとボヤいて、長生きしてほしかった。(本紙評論家)

☆のむら・かつや 京都・峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)入団。65年に3冠王。70年に兼任監督となり、73年にリーグ優勝した。80年に45歳で引退。通算3017試合出場、2901安打、657本塁打、1988打点はいずれも歴代2位で打率2割7分7厘。本塁打王9度、打点王7度、首位打者と最多安打1度、MVP5度。89年に殿堂入り。90年にヤクルト監督となりリーグ優勝4度、日本一3度。99年から2001年まで阪神監督。社会人のシダックス監督を経て06年から09年まで楽天監督を務めた。監督通算1565勝1563敗76分け。