北海道一高いキャバレーで歓迎会が開かれた立教大・長嶋の凄さ

2019年08月14日 16時30分

【越智正典 ネット裏】「よく晴れた日でした。はっきりと覚えていますよ」。長嶋茂雄は臼井国民学校4年生、数えで10歳のときに8月15日を迎えた。

「ラジオの前に集まり正座をして天皇陛下の放送を聴きました」

 長嶋は昭和11年2月20日、千葉県臼井町下宿で呱呱の声をあげた。3日後に大雪、朝まで降り続き、それからまた3日後のお七夜の朝、また大雪で関東平野は埋まった。「作物がよく茂って出来ますように『茂雄』と命名しました」と、父親はいうが、あの「二二六事件」の当日である。

 昭和の幕開けはけわしくつらい。農村も不作不況が相次いだ。臼井は昭和29年、長嶋が立教大学に入学する年の3月に佐倉市と合併するが、父親は半農で臼井町の出納会計責任者、収入役。知ってのとおり、町長、助役、収入役は町政3役である。

 京成電車の、昔の臼井駅の踏切を渡り、成田街道を少し戻って行くと、ポコンとお椀を伏せたような丘がある。寛政年間の名力士、幕内成績254勝10敗2分け14預かりと伝え聞く雷電為右衛門は、この丘の上で毎日恋人のおうめさんと印旛沼を眺めて静かな晩年を送ったという。丘の下の妙伝寺に墓。「俗名、雲州雷電為右衛門源為義の墓 施主飯田忠八」…。

「もう飛行機は飛んで来なくなりました。毎日泳いでました。相撲も取りました。すくい投げと打っ棄りが大好きでした」 印旛郡組合中学に進む。家から6キロ。丘を越えて通学した。同中学は旧佐倉57連隊第一中隊の兵舎がそのまま校舎、教室であった。

「ちいさいときに『英霊』と、遺骨を抱いて還ってくる兵隊さんを迎えに行きました」。佐倉57連隊はノモンハン部隊である。昭和29年、不思議なアヤが重なって立教大学へ。監督砂押邦信がナインを鍛える。立教大学は昭和32年春、28年に左腕小島訓一で勝ってから8季ぶりに優勝。北海道の社会人野球で活躍していた立教の先輩たちがごほうびに、梅雨のない北海道に後輩たちを招く。

 6月18日、北海道遠征第1戦の朝、国鉄旭川駅のとなりの宮前球場のスタンドはもう7000人のファンで埋まった。長嶋、投手杉浦忠らがセンセイになる、立教大学同窓会主催の、市内小中高校生の野球教室を見に来たのである。チビッ子たちのお弁当がおいしそうであった。午後3時、旭川鉄道管理局戦がプレーボール。立教14対0。長嶋がホームラン。

 その晩立教大学旭川同窓会が、市内のキャバレー「ニューカレドニア」で歓迎会を開いた。みんなの前途多幸を祈って旭川市立図書館長の音頭で杯をあげた。いまなら学生野球がキャバレーでと叱られたであろうが、のどかな時代である。

「なに、なに」。伝え聞いた岩倉組や王子製紙の幹部社員が仰天した。

「あのキャバレーは北海道でいちばん高いんだッ。長嶋が凄いんだ」  =敬称略=