【越智正典 ネット裏】7月12日金曜日、東京ドーム、13日土曜日、甲子園球場でオールスターゲームである。

 昔、1954年、毎日オリオンズの山内一弘が球宴で大活躍。“オールスター男”といわれたが賞品はオートバイ「ドリーム号」はじめ、パン100個など…。“安打製造機”榎本喜八が名セリフを吐いた。

「オールスターゲームは山内さんの賞品運びをする日のことです」。ことしも賑やかであろう。

 本紙デスク礒崎圭介は「いい男だあー」と、76年ファン投票で全パに選出された大田卓司とよく語り合っていたが、私も大田に会いたくなった。彼は年俸300万のときに選出され出場している。球宴史上給料がいちばん安い、出場選手である。

 大田は66年、大分県津久見高に入学。大田の津久見の先輩、前ロッテ寮長池田重喜(63年夏、第45回大会の甲子園へ、東京新大学杏林大顧問、コーチ)は「卓は高3になったとき、おかあさんが病気になると、練習がガラリと変わったんです。気合いが入りました」

「監督の小嶋仁八郎先生(臼杵中、中央大、投手)は、選手の一瞬のプレーの変化も見逃さない達人です。大田は抜擢されて68年の第50回大会の甲子園へ行けました」

「監督はあとで津久見の教育委員会の社会教育課長と公民館長に引っ張り出されましたが、実家は津久見の回船問屋。緻密で豪快。スクイズをやるときは、バットを高くあげ“おーい、次の球をスクイズだ!”。相手はびっくり。まさかと思ったようですがホントなんです。先生は“なあーに相手にわかったっていいんだ。それよりわかりやすいのが大切なんだ”」

「大学時代は飛田穂洲先生の秘蔵っ子だったとあとで聞きましたが、津久見っ子を夏だけでも8回も甲子園に連れて行ってくれました(72年夏第54回大会全国優勝、67年センバツ優勝)」

 大田は69年西鉄入団。鎌倉学園、日通浦和、苦難にぶつかっても、さっぱりしている竹之内雅史と気が合った。西鉄はやって行けなくなって73年に太平洋に。球団はアメリカに倣って選手にミールマネー。遠征費節約である。竹之内は笑っていた。「ナイターが終わってからですので開いているのは居酒屋。卓と呑んじゃって毎晩、足ですよ」。大田が球宴に選出されたのはこの時代である。

 太平洋はクラウン時代を経て78年に西武に引き取られる。大田はエンがあって結婚。監督広岡達朗が彼を二軍に落とした。夫人はよく出来たひとで、翌朝のスポーツ紙を見て

「あなた、凄いわねえー。一面トップよ。見直したわあー」

 その日、大田は対ロッテ二軍戦の、JR青梅線小作の遠征球場にやって来たが、練習をしなかった。試合にも出なかった。一日じゅう、バットを抱いていた。 =敬称略=