元巨人・川相拓也 2世選手の葛藤と父との戦いだったプロ3年間

2019年07月09日 11時00分

現在はエイジェックでプレーを続けている川相

【クローズアップ野球人間】「親父と初めてちゃんと会話したのはプロに入ってから。幼いころは遠征ばかりで、顔を合わせることもめったになかった。夜寝てから帰ってきて朝は起きてくる前に学校に行くような生活。選手としても親子の時間という意味でも、一番濃い3年間でした」

 拓也が生まれたのは父・昌弘がシーズン58犠打の日本記録を樹立した1990年オフ。物心ついたときから巨人の一軍でレギュラーを張っていた父の姿には誇らしさの半面、複雑な思いもつきまとった。

「小学校のころは自分もプロになれるもんだと思っていたのが、中学に入ると周りがどんどんデカく、うまくなっていって、子供ながらに『俺には無理なんだな』と悟った。だんだん試合にも出られなくなって、それでも取材ではよく取り上げていただいたり…。『親の七光』とか『親父の敷いたレールに乗ってるだけ』とか、まあよく言われましたね(笑い)」

 まっさらな環境でプレーしたい、何よりも試合に出たいとの思いから、大学は硬式野球部が創部1年目だった桜美林大に進学。4年時には初代主将を務め、指導者としての勉強も始めたが、一方で迷いもあった。

「当時まだ22歳。野球のイロハも知らなければ選手としての経験も浅い。こんなんで教えられるのか、俺に教わりたいと思う選手がいるのか…と。もう一回、やれるところまでチャレンジしてみようかと」

 ブランクを取り戻すため1か月の米国でのトレーニングを経て帰国後、巨人と広島の入団テストに応募。「ダメでもともと、記念受験と言われても仕方ない」という状況の中、巨人への入団を果たす。全く結果を残せなかったが、1年目が終わるころ、父の三軍監督就任が決定。父と子であると同時に指導者と選手となり、川相親子の戦いが始まる。

「もう本当、毎日顔を合わせるわけですよ。周りの目もある中、人一倍厳しくて、人と同じ行動をしているだけで怒られる。僕も僕でだいぶ反抗して、周りが止めに入ったり、ヒヤヒヤするような大ゲンカもしょっちゅうやった。思春期のころは全く家にいなかったので、遅れてきた反抗期だったのかもしれません(笑い)」

 選手と監督ながらも正面からぶつかり合い、足りていなかった親子の時間を埋めていった。課題の打撃に成長の跡が見えつつも、依然として支配下には遠かった3年目の秋。戦力外通告は父から伝えられた。

「遠征先の監督室に呼ばれて『来季の戦力としては考えていないらしい』と。残念そうな感じで、そのときですかね、初めて父親の顔になったのは…。自分としては覚悟はしていたし、ショックはなかった。次のことを考えなきゃなと」

 独立リーグからも話はあったが「独立はNPBを目指す人たちの場所。僕はもうやり切ったので選択肢にはなかった」。“再就職先”には社会人野球のエイジェックを選んだ。チーム立ち上げから選手兼任コーチの肩書で参加し、今は主将としてチームを引っ張る。将来的な指導者の道も視野に入れ、いろいろな可能性を模索している。

「ひと口にプロの指導者といっても、本当にいろんな人、いろんな指導法がある。選手に寄り添う人、持論を押し付ける人、すごく勉強しているなという人もいれば、強く振れとしか言わない人もいる。(広島で活躍し、現エイジェックの)梵(英心)さんから一軍と二軍の指導者の違い、カープとジャイアンツの違いを学ぶこともあります。親父はどちらかといえば自分の成功体験に当てはめるタイプ。選手としてや指揮官としてはかなわなくても、一指導者としては超えられるかもしれない。まあ、全然別の道に進むかもしれないですけどね(笑い)」

 バットを置く日は、もう少し先だ。


 ☆かわい・たくや 1990年11月25日生まれ。神奈川県横浜市出身。小学1年時に若葉フレッシュリーブスで野球を始める。桐蔭学園中では軟式野球部に所属。桐蔭学園高から桜美林大に進学し首都大学2部リーグではベストナイン3回。同大職員を経て2014年に育成ドラフト2位で巨人入団。17年に戦力外となり、18年から社会人野球エイジェックでプレー。174センチ、74キロ。右投げ右打ち。