コックとボーイで“三刀流” 太平洋クラブライオンズ・坂井代表

2019年06月08日 11時00分

坂井保之氏

【越智正典 ネット裏】本州も梅雨に入る。いまはドーム球場が増え、どの球団も屋内練習場を備えているが、昔、すべてに華麗だと思われた巨人にも屋内練習場はなかった。ちょっと話がそれるが巨人の多摩川寮はどんぶりめし盛切り一杯。本紙評論家になる“猛牛”千葉茂が二軍監督になったときに本社厚生課に話をしておかわり自由になった。この知らせに十時啓視ら二軍選手たちは食堂でバンザイ三唱した。終戦から12年、1957年になってもこうであった。

 水原茂監督時代、試合が流れると、多摩川の丸子橋のほんの少し上流の、東急東横線の鉄橋の下が練習場であった。ここで必ず練習したのは310勝剛腕別所毅彦。キャッチャーは55年入団の森祇晶が指名された。森には雨の休日がなかった。映画も見に行けない。このときの辛抱が投手を見る目を確かなものにし、後年西武の監督として在任9年。リーグ優勝8回、日本一6回、V9の川上哲治に次ぐ見事な勝利の名将となるのである。

 61年、監督川上は本拠地試合が中止になると、多摩川寮集合! 結集力強化のためだった。食堂のテーブル、椅子を運び出し、軒下に積み上げて、食堂で練習した。

 梅雨にも晴れ間がある。旧後楽園球場で試合前に走ったのは王貞治と、沢山汗を絞り出すためにラバーコートを着込んだ森祇晶。よく走った。

 このとき左翼スタンドと三塁側内野スタンドの間に設けられた物干し台のような席で、球場の責任職員が右翼上空、西の空をにらむ。人呼んで「弁当監督」。西が曇れば雨になる。気象データ入手はまだ一般的ではない。場内で売る助六寿司などはいっぺんにオーダー出来ない。中止になれば全部処分しなければならない。「よし! 幕之内200!」。階下で待機している業者が公衆電話に飛びつく。ケータイはまだない。

 日本シリーズで3年連続巨人を破ることになる“強大王国”西鉄ライオンズの名将三原脩は、雨で試合が流れると、平和台球場の選手のロッカールームを巡視点検した。

「こういうときこそ、ユニホーム、野球用具、私物の整理整頓が大切なのだ」

 平和台球場はお堀ばたを歩いて行っても、市内電車で行っても楽しかったが三原が去る。世の中も変わる。球団経営がきびしくなる。私鉄の運賃値上げがからんで運輸省も厳しく、太平洋に引き取られる。

 梅雨の谷間に晴れると72年11月13日着任の新代表坂井保之は忙しかった。2階、球団直営食堂の調理場に飛び込み、米屋さんにお米を配達して貰ってごはんを炊き、それから大急ぎで食材を仕入れ、ライスカレーを作った。お客さんが入ってくると「いらっしゃいませ」。球団代表がコックとボーイさんをやったのは坂井が最初で最後である。

 しかし目を釣り上げていることはなかった。たのしんでいるように思えた。坂井は78年西武代表に招かれる。
 =敬称略=