美しい愛河の色に思えた大下弘の青バット

2019年05月25日 11時00分

【越智正典・ネット裏】全8週の春の東京六大学は25日に第7週に入る。大詰めである。戦後、ファンを沸かせた、あの青バットのホームラン王大下弘は、在学中神宮球場で試合をしたことがあるが六大学の公式戦に出たことがない。昭和17年高雄商業から明治大。新人は「明和寮」1階。夜上級生が2階で床を叩く。マッサージをしに来いというのだ。真っ先に階段を上って行くのは大下弘だった。かばってくれる先輩はいない。

 高雄商業は昭和12年創立。南支南洋の子弟の教育校。第18回台湾地方予選大会が台北帝大球場で始まる。4年生投手(当時中等学校は5年制)大下は奪三振16。第2戦は対嘉義農林。4回、公式戦第1号右翼越え本塁打。7回降雨激しくドローゲーム。本塁打は公式記録に残らなかった。翌日、嘉農に敗れた(西脇良朋著、台湾中等学校野球史)。

 球ひろい時代が終わり打撃練習許可。打球は現明大和泉校舎にあったグラウンドの右翼うしろの松林を悠々と飛んで行った。ポンポン打つので「ポンちゃん」。昭和18年秋、ポンちゃんも学徒出陣。本籍が神戸なので姫路師団の歩兵部隊に入隊。「どうせ死ぬなら大空のほうがいいや」。志願。軍曹になったときに埼玉県豊岡(現入間市)の陸軍航空士官学校に入隊。一式戦闘機、隼の操縦400時間で配属になった北海道八雲で昭和20年8月15日を迎えた。

「玉音放送」が終わると愛機に飛び乗り豊岡へ。破天荒な復員である。まだ正式な停戦命令は出ていない。米機に撃たれるかも知れなかった。彼は高雄の愛河河畔で料亭を営んでいた母親に育てられた。母一人子ひとり、復学すればきっと母が訪ねてくる。大下は「毎日バットをかついで和泉校舎の正門の前に立っていた」(大宮農商卒、塚本昭一)。

 11月4日、明大はOB対現役の試合を接収された神宮球場で挙行出来た。米第71野戦病院対第1303工兵隊の試合前だったが、明大先輩、内閣官房副長官、松本滝蔵(2016年殿堂入り)の尽力だった。

 大下は4番(田中茂光著編、明治大学野球部100年史)。いきなり三塁打。控室に戦後プロ野球に名乗りをあげたセネタース(戦前の同名球団とは別)の明大先輩横沢三郎。誘われた。母親が帰って来たときに備えたい。即契約。復活東西対抗で猛打。本塁打賞、殊勲賞、最優秀選手賞…。

 21年再開プロ野球で20号で本塁打王。チームは金主が代わり1年で終わり、東急に。東映が主演大下、恋人役に高峰三枝子で「花嫁選手」を制作した。22年、首位打者(打率3割1分5厘)、本塁打王(17本)。粗悪球時代だから凄い。日本野球連盟が日本野球記者倶楽部に22年度日本野球代表チームの選考を依頼した。大下は満票だった。

 大下 弘 東急 28票

 川上哲治 巨人 27票

 青バット赤バット時代が始まる。私は郭泰源のことで高雄を訪ねたとき、青バットは美しい愛河の色のように思えた。

 =敬称略=(スポーツジャーナリスト)