【越智正典 ネット裏】10連休、ソフトバンク監督工藤公康の「55歳の自己改革」(講談社2019年3月刊)を読んでいた。

「僕が現役引退を決めたのは2011年のオフのことです。48歳でした。プロ30年目の節目となったこの年、3月11日に東日本大震災が起こりました」。1994年から毎年オフに各地で開いていた野球教室のため「6月くらいだったでしょうか、宮城県石巻市を皮切りに福島県郡山市など震災被害に遭った東北各地をめぐっていく過程で僕の中である心境の変化が起こったのです」(第4章恩返し)。訪問すると広場がない。避難所の横では広がれない。

「じゃあー、オレ投げようと言いました」。少年たちを2チームに分け、100人なら50人が順番に打ち他は守備。

「僕が両方のチームに投げてどっちのチームが多く点を取るか勝負しよう」。毎日2、300球は投げた筈だ。

「帰りにコンビニに寄って氷を買って肩にグルグル巻きにしました」。肩が潰れたに違いない。が、記述はこれだけで、余白が多くを語る本である。

(まえがき―この本を出すまでの思い)で根本陸夫を活写している。95年FAで西武からダイエーホークスに移ったある日、ダイエー球団の専務根本を訪ねる。

「野球界を盛り上げるにはON対決しかないんだ。王を胴上げしろ! いいか、そのために必要だと思うことをしろ。僕は、はい!と、それだけ言って帰りました」

 筆者は、15年筑波大学大学院で勉強していたときにソフトバンク球団会長、王貞治に監督に招かれる。入学保証人だった王は大学に挨拶に行っている。15年、17年、日本一。18年は開幕から故障者続出。「王会長は4月下旬のヤフオクドームの試合前、一軍の本拠地から車で1時間以上もかかる筑後市のファーム施設を訪れその足で戻って来て両方の試合を視察…。“三軍の練習を見たけど良かったよ”」

(第6章、人としてあるべき姿)では、ほのぼのと「実は工藤家では家族それぞれスケッチブックを持っていてメモを取っています。もともとは妻が子どもたちと始めたことですが僕も取り入れるようになりました」

(あとがきにかえて)には「私たちが子どもの頃にはたくさんの遊びがありました。ビー玉は指をはじいて玉を飛ばすから自然と指が強くなり、メンコは相手のメンコをひっくり返せば勝ちなので手首のスナップが鍛えられ、コマは相手にぶつけて最後まで回っていることが大事なのでヒジの使い方がうまくなり、手首が強くなったのです」。彼はこう述べて結んでいる。

「子ども時代はゴールデンエイジ」だと。

 本のいちばんおわりに※本書の収益の一部はNPO法人ホークスジュニアアカデミーに寄付し野球振興および普及活動や被災地復興支援活動、引退選手のセカンドキャリア支援などに活用させていただきます…。よか男である。 =敬称略=