甲子園史上2人目の完全試合男 “パーフェクトゲームの呪縛”の苦い経験が選手を教える糧に

2019年04月27日 11時00分

現在は母校・青学大でコーチを務める中野

【気になるあの人を追跡調査!野球探偵の備忘録(83)】高校野球の歴史上2人しか達成していない、聖地甲子園での完全試合。1994年の第66回選抜高校野球大会1回戦の江の川戦で松本稔(前橋=群馬)以来16年ぶりに偉業を成し遂げた金沢(石川)の中野真博は、その投手として最高の栄誉にユニホームを脱ぐまで苦しめられることになる。この春母校・青山学院大に戻り、今は投手コーチとして野球とかかわり続ける中野が、今だからこそ話せる“パーフェクトゲームの呪縛”と、そこから学んだ指導者としての哲学を語った。

「7回ぐらいから、なんとなく意識はしていた。ベンチもどことなくソワソワしていて、1アウトごとに観衆が沸いてね。甲子園には3回出場したけど、同じ球場なのに見えている景色が違った。それはなんとなく覚えています」

 大記録が生まれたのは3年春のセンバツ1回戦・江の川戦。それまでにも2度エースとしてチームを聖地に導いたが、いずれも初戦敗退を喫した2大会とそのときとでは、精神面で大きな成長があったという。

「初めての甲子園は緊張で足が震えた。2年の夏も僕のせいで負けてしまって、それなのにスタンドからベンチ外の3年生が『お前のおかげで甲子園に来れた』『中野ありがとう』と泣きながら言ってくれた。恥ずかしい話、それまではスタンドの応援も裏方の気持ちも考えたことがなかった。あのときから責任感も感じるようになったし、周りが見えるようになったんだと思う」。客観的に周囲を見られる精神的な余裕が大記録達成につながった。

 だが、完全試合の反響は中野の想像をはるかに超えるものだったという。

「自分としては甲子園1勝という気持ちしかなかったので、ビデオで見返して解説者が興奮してるのが人ごとのような感じ。それからは『完全試合の中野』とか『あれが本当に完全試合した投手?』とか枕ことばのようにつきまとって、完全試合なんかしなきゃよかったと何度も思いました」

 大学では「調子に乗ってる」と目をつけられたり、ヤジや嫌みと捉えられるようなことを言われることも。そのたびに「そうだよ、自分はちっとも完全なピッチャーなんかじゃねえよ」とふてくされる日々が続いた。呪縛が解けたのは社会人の東芝時代、現役を引退する直前のこと。当時を懐かしみながら中野は言う。

「今だから言えますけど、奮起させるためだったり、ケツを叩くための言葉もあったと思う。ただ、当時の自分は完全試合というレッテルを貼られてるもんだと思い込んでいて、嫌みとしか受け取れなかった。今は自分も指導者になって、厳しい言葉の裏に愛情があることも、表現が下手でふてくされてるように見える選手がいることもわかる。完全試合をして、その後いろいろと苦い経験をしたからこそ、選手には絶対にレッテルを貼らないように、貼られていると思わせないようにしていかないと。指導者になってから、ようやくあの試合があってよかったと思えるようになったんです」

 史上2人目の快挙からすでに25年。大記録に翻弄された当事者は今、苦しい日々を過ごした母校のグラウンドから、様々な教訓を後輩たちに還元している。

 ☆なかの・まさひろ 1976年6月8日生まれ、石川県金沢市出身。小学校3年のとき千坂ファイターズで投手として野球を始める。北鳴中では軟式野球部に所属。金沢高では1年秋からエースとして2年春夏、3年春と3度甲子園出場。3年春の1回戦江の川(現石見智翠館)戦で史上2人目となる完全試合を達成する。青山学院大では東都大学野球で通算6勝。大学卒業後、99年に社会人野球の東芝に入社。2008年の現役引退後、東芝コーチを経て、19年から母校青山学院大で指導にあたる。182センチ、80キロ。右投げ右打ち。