【越智正典 ネット裏】春が待ち遠しかった去る2月19日、両国国技館でアブドーラ・ザ・ブッチャーの引退セレモニーに招かれた倉持隆夫に会った。「赤いカーネーションを贈れました。カーネーションは感謝の花ですのでよかったです」。アマリリスが大好きな彼は放送でもひょいと花を描いていた。キレイな実況になった。

 倉持隆夫は日本テレビのアナウンサー時代、正力杯学生柔道、ゴルフ、プロレス…。正力松太郎翁関係の競技を担当していた。プロレス放送は日テレ開局半年後の1954年2月、明治座の新田社長の、放送して頂きたいという頼みに正力翁が肯いて始まった。勿論、翁もプロレスを知らない。が、この肯きが街頭テレビにつながり大ヒット。また、倉持はのちに、企画、取材力を見込まれてテレビ金沢にニュースキャスターで派遣され、金沢、星稜高出身の松井秀喜にいまも慕われている。その倉持が2010年1月「マイクは死んでも離さない」(新潮社)を著すと、仲間たちは、あのあさま山荘事件のドキュメントに違いないと思った。銃撃を始めた山荘80メートルの地点でマイクを握りしめて実況していた。出版記念の食事会に、ぜひと招かれたアナウンス部長赤木孝男の報告にみんなびっくり。いや、呆れた。プロレスの本だったのである。

 彼はセントルイス、サンアントニオ…など、全米各地を訪れると“天井桟敷”で、ピーナツもコーラも買えないでゴングを待っている少年たちを必ず見ていた。リングサイドでは着飾った男女がシャンパンをあけていた。倉持の数々の熱血実況はこの凝視から始まっている。いつだったか、長野のホテルで倉持にバッタリ逢ったことがある。ブッチャーの部屋から出て来たところだった。

「ブッチャーが息子に電話をかけ、チョコレートを送ったよ、食べてくれと、ポトポト涙を落としていました。ブッチャーは少年時代、チョコレートも食べられなかったと言って」

 倉持はしかし、この日は楽しそうに笑っていた。「この引退セレモニーは全国各地でもう70回も挙行されているんですよ。プロレスは完全に見事なショーなんです」。リングに案内された倉持は車椅子のブッチャーにハグ。形式ではなかった。力強く抱きしめた。お客さんは総立ち。拍手を送った。ファンはショーなのを知っているが、このときばかりはショーを超えた二人を讃えた。ブッチャーは来日するときに倉持が好きな銘柄のウイスキーを、それも必ず2本、みやげに下げてくる。義理堅い。決して放送席に届けない。“付き人”にそっと届けさせている。知らない筈なのにファンにはわかるのだ。NHKがニュースでこの引退劇を放送した。倉持の家にメールが殺到した。「クラさん、ありがとうございます」
 =敬称略=