長嶋が背広を贈った男

2019年03月24日 11時00分

【ネット裏・越智正典】「背番号3、長嶋茂雄イカスじゃないか」。石原裕次郎が歌ったが、プロ野球は長嶋に沸いた。昭和33年巨人軍入団。本塁打1位29、打点1位92、打率2位3割5厘(首位打者は阪神田宮謙次郎、3割2分)。打撃2冠で新人王。夏の陣に入るとスポーツ紙には3冠王!と期待の活字が躍った。清水くん…と言ったと記憶しているが後楽園球場のスタンドを回ってホットドッグを売っていた少年が「えー、3冠王はどうですか」。この売り声にも拍手が起こった。

 長嶋は、実は本塁打を30本打っている。9月19日、後楽園球場での広島戦。1対1の同点の5回裏、カープの鵜狩道夫から左中間に本塁打。勇躍ホームインしたが広島ベンチがアピール。張り切り過ぎて一塁ベースを踏み忘れたのだ。記録はピッチャーゴロで29本になった。

 翌昭和34年、オープン戦が東上。その日、長嶋が豊島区千早町の立教大野球部合宿所智徳寮にやって来た。「荒井はいるかな」。荒井邦夫。京都嵯峨野高卒、長嶋の一学年下で、神宮球場のネット裏では彼が長嶋の次の三塁手になるだろうと、見ていた。一途な男で、少年時代に阪神の名ショート吉田義男にコーチをして貰ったのがうれしく、ムッシュ・ヨシダがフランスへ野球指導に行くと報恩支援をした。

 荒井は昭和30年、立教大に入学。理学部化学科。練習が始まると1年生は声出し役。ファウルが飛ぶとその打球ひろい。甲子園大会に出場した1年生は飛び出すのが一瞬おそい。荒井ははやかった。

 昭和30年春の東京六大学リーグ戦が終わると、4年生大沢啓二が、練習がきびし過ぎると砂押邦信監督の排斥を始めた。「練習に出るな」。砂押の人間教育、野球への情熱を尊敬していた荒井は「いやです。恩師を裏切れません」。1年生が最上級生の命令に逆らうのだから当時のことだから凄い。砂押は世間を騒がせたら母校に申し訳ないと潔く退いた。名将である。

 智徳寮にやって来た長嶋はタクシーに荒井を乗せて日本橋へ。三越本店のすぐそばのテイラー後藤へ。「ウン、これが荒井に似合う」。うすい茶色で、こまかい格子じまの背広を荒井のために特注した。名目は、巨人の明石キャンプに行く昭和33年2月15日、東京駅に荒井が見送りに来てくれたお礼だった。

 長嶋は前日予備の学帽を同室の1年生枝松道輝に贈ったが、夜行寝台さつまの発車ベルが鳴るとかぶっていた学生帽を脱ぎ「あとをたのむぞ」。荒井に贈った。長嶋はあの事件で大変だったなと言いたかったのだ。荒井は山一證券に入社。法人担当。日本熱学から人物を見込まれて貰いがかかった。役員、九州工場長、野球部長。それから人生の波濤を乗り越えて来た。

「あの背広ですか。勿体なくて着られません。家に飾ってあります」

 世の中に出る若者たちの背広の季節である。=敬称略=
 (スポーツジャーナリスト)