食べることが戦いだった若き日の立浪

2019年03月16日 11時00分

ドジャースとのオープン戦でルーキーの立浪は大活躍(1988年3月)

【越智正典 ネット裏】去る1月15日、プレーヤー表彰で中日一筋、22年間で2480安打の立浪和義が殿堂入りした。本紙は中日ファンの監督待望を伝えたが、毎朝4時に起きて寮、グラウンドの周りの草むしりや落ち葉ひろいをやっていた立浪が、PL学園の主将に指名されたのは昭和61年秋。翌62年春、PLはセンバツで優勝。5月母の日が近づくと、173センチのこの主将は3、2年生の夜の電話の使用を禁止した。1年生が喜んだ。母親に電話出来る。

 夏、PLは2年ぶりに甲子園へ。69回大会に優勝、初の春夏連覇を果たした。PL学園野球部創部の功労者井元俊秀は感無量であったであろう。学習院大、昭和33年秋、東都優勝投手、MVP。目白の街は提灯行列。そのあと私は九州志免町の寿司店で監督中村順司の色紙を見て心打たれた。優勝とも努力などとも書かれていない。店の繁栄を祈るご主人への字が大きく、左下にちいさく「ご声援ありがとうございました」。ご主人は店に飾っていない。紫の大きな風呂敷で包んである額を奥から出して来てくれた。

 秋、中日監督星野は立浪をドラ1で指名。抜擢。昭和63年春、ベロビーチ遠征のメンバーに加えた。3月3日対ドジャースオープン戦。立浪をショートで2番。ドジャースの強打はすさまじく0対14になるのだが、6回立浪は猛ゴロに弾き飛ばされた。すると次打者が出てくると、前に出て構え、さあー来いとグラブを叩いた。声はボーイソプラノ…。

 夜の食事が始まる。お盆を受け取り並ぶ。この日はローストビーフ、鶏の照り焼き、貝柱のバター炒め、中華風牛肉炒め、サラダ…。ぐるりと回ってテーブルに。立浪はステーキ。また並びニューヨークカットの特大ステーキ。マイナーリーグから75選手が集められていた。むこうの教育は下へ落とすことから始まるが、立浪にとっては「このからだですから…」食べるのが戦いであった。また並んだ。今度はボーンステーキ。

 その夜、ミーティングルームでソ連のナショナルチームへの指導を見ていると立浪がやって来た。同室の先輩からあそこへ行って氷を持ってこいと言われたのだ。するとナ・リーグの名ショート、ビル・ラッセルが練習しようと呼び止めた。前進守備を見ていたのだ。終わるとそのときのボールにサインをして渡した。激励球だ。

 ドジャータウンの夕焼けはキレイだ。練習が終わり、ほっとして散歩をしていると広報トビー・ズワイケルが「ビューティフルだ」と走っていた。「日本の、そのオー、T・T・T」。タツナミと発音するのがむずかしいらしい。「そのT…日本のゴールデンルーキーだ!」。たったいま、一人でドジャース本隊のクラブハウスにやって来て、ラッセルを探し、昨夜のお礼を言って堂々と帰って行ったのだという。

「エキサイティングな出来事だ。これからプレスに発表する。TTT…」。発音練習して走って行った。 =敬称略=