この選手はホンモノだ! 新人時代の矢野監督が周囲をうならすひと言

2019年03月03日 11時00分

中日時代の矢野(左)の気迫あふれるプレー(1996年8月)

【越智正典 ネット裏】星野仙一によって正捕手に抜擢され、星野のドラゴンズ監督初優勝の本塁を死守した、殊勲の中村武志を獲ったのはドラゴンズのスカウト田村和夫である。京都花園高で彼を見た田村は中村武志の純なココロに惚れた。武志は韓国へコーチで行っていたが、ドラゴンズにコーチで戻って来た。逝って1年になるが、星野も泉下でよろこんでいるだろう。

 当時、中村武志は来る日も来る日も、試合前に星野の指示を受けたコーチの至近距離直撃ノックを浴びた。星野は、この姿に投手団が武志のリードを信頼して投げるにちがいないと確信していた。

 中村武志は合宿所で若い後輩たちにモテた。

「監督のゲンコツは痛くないですか」

「平気さ、あのな、ベンチを映すテレビカメラに赤いランプが灯っているときは放送中なんだ」

「そうなんですかあー」

「そのときは大丈夫なんだ。ポカリとやったら全国に放送されちゃうからな。ランプが消えたら大変だ。そのときは用事があるフリをして監督のそばから逃げればいいんだ」

「センパイ、カッコいいですね」

 大阪桜宮高、東北福祉大の捕手、阪神新監督矢野耀大は、1990年2位で中日に指名された。91年に入団したがほとんど試合に出られなかった。やっと初めてマスクをかぶれたのは開幕から5か月が過ぎた8月になってからである(第1年は出場22試合、27打数3安打、打率1割1分1厘)。遠征の宿での食事は末席で、横浜では愛工大名電からキャッチャーで入団していた山崎武司の隣りであった。

 ドラゴンズの取材撮影を終えたテレビ局のスタッフが矢野の席の前を通った。

「矢野君、(試合に出られないのに)よく耐えていますね。今度、取材にくるからよろしくね」

 矢野が怒った。「冗談じゃない」。憤然として「耐えてなんかいませんよ。出してくれないんで、怒っているんだ。もう来ないでくれ!」

 この新人ホンモノだ!このとき、一軍マネジャーだった福田功が感嘆した。

 福田は1歳のときに、大和郡山の英語の教師であった父親が両親を訪問中のブラジルで他界。母に抱かれて大西洋航路で帰国。母一人子ひとり。こんな日々がのちに彼の分析力を広げる。奈良県立郡山高監督、慈愛の名将、森本達幸に育てられる(関大)。だれに対しても思いやりがあるのを見て正捕手に。捨てられた小犬も育てていた。監督宮井勝成の中央大、全日本捕手、正確な捕球、構えはブレなかった。

 2008年、矢野が北京五輪の代表捕手に選ばれると、それはよろこんでいた。私は福田がまだ二軍用具係であったとき、日南へ広島二軍と練習試合に行くバスが発車しようとすると、走って来て「勝って来いよ」「中日二軍バンザイ!」と三唱していたのが忘れられない。そういう男である。 =敬称略=