裾野こそが大切だと教えられた日

2019年02月16日 16時30分

【ネット裏・越智正典】日本の女子フィギュアの稲田悦子さん、12歳と、庄司敏彦(満州医大)選手らのアイスホッケーチームが初めて冬季五輪に出場したのは、昭和11年、1936年、ドイツ、ガルミッシュパルテンキルヘン大会である。夏季大会はベルリン。戦後、市川辰雄(早大)は「日本に帰ってくると東京は大雪。二・二六事件の日でした」。翌年、「北支」で盧溝橋事件。世界じゅうから平和な灯が消える大戦前夜の大会だった…と回想している。可憐な「銀盤の少女」「悦ちゃん」の正式壮行会は記憶が遠く、ちがっているかも知れないが、新宿のデパート伊勢丹。伊勢丹の地下にリンクがあった。ハイカラで、はなやかであったが、なぜか、行くと子供心に哀しさが迫って来た。そういう時代だったのか。「悦ちゃん」を見たのは伊勢丹ではなく、京王閣だった。小学校の先生に連れて行って貰った。偉いんだあーと尊敬した。日本選手権優勝7回。彼女は女子フィギュアの先駆者である。

 後年、私はガルミッシュパルテンキルヘンを訪ねることが出来た。空は青く、南アルプスの山々は高く、オーストリア国境に近いこの町の家々のバルコニーに花々。街にはゴミひとつ落ちていない。スケート場を訪ねると、入口に少女が立っていた。落し物ですと会員証を届けに来たところだった。老館長が出て来て、しゃがみ、少女と目の高さを同じにしてお礼を述べ、さあー踊りましょうとレコードをかけ、ウィンナワルツを踊った。帰りに入場券を2枚贈っていた。

 館長にジンをご馳走になった。インスブルグでこの前日本のチームを見ましたよ、いい選手がいましたよと写真を取り出して指差した。苫小牧東、立教大、アイスホッケーCF、稲津秀則だった。

 当時、新宿区柏木の王子製紙子弟寮で会うと「ありがたいです。ごはんのおかわりが自由です」。アメリカ経済史が専攻で授業に熱心に出ていたが、終わると部の練習が一般滑走後の夜なのに、真っ直ぐ後楽園アイスパレスへ。お客さんに迷惑をかけないように短いダッシュを繰り返していた。心打たれた係員が「稲津君、時間を気にしなくてもいいよ」。見る人が見るとわかる。老館長は稲津を見抜いていた。

 山の頂きが高いと、裾野が広がり、裾野が広がると山が高くなるといわれるが、この日、私は裾野こそ大切だと教えられた。中日で高木守道と絶妙な1、2番コンビを組んだ谷木恭平の父親、谷木繁太郎を思い出した。

 リンク作りの名人、繁太郎は北海道の市民スポーツの功労者である。札幌のおでん屋「一平」の主人。カニシューマイ、岩のり…おいしくて安い。お客さんは繁太郎の人柄に惹かれてやってくる。冬“しばれる”晩は、春を待つようにフキを味わっている。繁太郎も、春がくると、伏見のバラ園のバラを毎朝、眺めている。 =敬称略=