殿堂入り権藤氏 わが道を行く男が漏らした忘れられないひと言

2019年01月16日 16時30分

38年ぶりの優勝を果たし、胴上げされる権藤さん(1998年10月)

【取材のウラ側 現場ノート】「権藤監督」と呼ぶと罰金を取られてしまうルールなので「権藤さん」とさせていただく。権藤さんに担当記者として接したのは、横浜が19年ぶりの2位になった1997年、そして38年ぶりの優勝を果たした98年の2年間。1年目は投手コーチとして、そして2年目は監督として…。とにかく選手思いで愛情あふれる人だった。

 横浜に来るまでは、ことごとく時の監督と対立して球団を去ることを繰り返していたから、さぞかし頭の固い頑固オヤジなんだろうと思っていたが、対立の理由は、いつも選手側に立っていたから。連投や投手の状態の悪いときなどは、監督と衝突してまでも投手コーチとして投手を守ろうとした。だから選手から信頼され、慕われた。横浜で実践した「中継ぎローテーションの確立」などは、権藤さんならではの采配だった。

 横浜では「放任野球」を掲げ、ミーティングもほとんどしない。とにかく選手をオトナ扱いしたことが、伸び盛りの若い選手たちが主力だった当時の横浜ナインに、どんぴしゃでハマった。だが、ペナントレース終盤の大事な場面では「鬼」になる…。そのころには、たとえ酷使されても選手はちゃんとついてきた。

 そんな権藤さんが、ふと漏らしたひと言が忘れられない。日本一になった後に、早大で講演会を行ったときのこと。「今からでも早稲田に入れないかな…。学閥を思い知らされることも多いんでね」。鳥栖高から社会人を経てプロ入りした権藤さんにとっては、古巣の中日フロントには早大閥が多く、監督候補に何度も名前が挙がりながらも、残念な思いをしたことがあったそうだ。自分にないものに憧れるのは、権藤さんでも例外ではなかったのだろう。

 確かに、なかなか監督になれなかったのと同様に、殿堂入りも遅かったぐらい。でもそれも、周囲にこびを売ることなく「わが道を行く」権藤さんらしい。
(1997、98年横浜担当・溝口拓也)