【越智正典 ネット裏】ことしの巨人は弱かった。3位でCS。2位ヤクルトを破ったが、ファイナルステージで広島に0勝3敗。「下克上」はほんのちょっぴり。選手は敏感で新監督と一緒に野球をやると、すぐに自分への評価がわかる。「どうせオレは」組が出る。オレは期待されていると安心組が出る。この2組が新監督で変わる。「一丁やるか組」と「大丈夫かな組」になる。

 巨人の黄金時代は第1期が1939年~43年の5連覇。監督藤本定義は「危なかったのは41年。橋の下でひろった広瀬習一(大津商業)に救われた」と言っていたが、広瀬が紹介状を持って関西遠征の宝塚の宿にやって来たとき、近くにブルペンはない。そこで橋の下。いい球を投げた。が、藤本は「ピンと来んなあー」。彼をうぬぼれさせないためである。

 同行の、プロ野球初代三冠王、中島治康には藤本の教育がわかる。広瀬にバットスイングをさせ、藤本に「打で使えます」。日本は戦時体制。スタルヒンは強制的に須田博に改名させられていた。

 広瀬は8月2日に入団。その夏、スタルヒンが肋膜炎。広瀬は左腕中尾碩志を助けてよく投げ、沢村栄治が2度目の応召の秋季戦にも活躍し、巨人は優勝した…。

 話は飛ぶがあの江川事件の直後、甲子園で藤本に会うと「阪神は江川と交換で選手をもらうようだが、そんなに巨人が欲しけりゃくれてやれ!」。茂林寺の猛練習を言っている。ノックバットで選手を鍛えろというのだ。

 戦後、51、52年と日本選手権で勝ち、3連覇を目の前にしていた53年、巨人は鳴尾高の捕手、藤尾茂ら13選手を補強。…南海から豪腕別所昭(毅彦)を引き抜いただけで勝ったわけではない。

「別所は出征すると特攻隊を志願。体が大きすぎる(183センチ)、飛行機に迷惑がかかるとハネられ、工兵隊に回されたんですよ」(滝川中の恩師前川八郎氏談)…。

 総勢29人。2月15日、羽田を発ちカリフォルニア州サンタマリアにキャンプイン。MLB、パシフィックコーストリーグ(3A)と対戦。4月4日帰国。ナインはよく走った。セカンドゴロが飛ぶ。三塁走者が足をあげてホームイン。監督水原茂は「百の理論より一つの実行」と帰国談。が、川上哲治の帰国談のメモがない。49年夏、中野高(明大中野)からテストで入団の無名の左腕、肩を痛め再起の二軍に行っていた名三塁手宇野光雄に育てられ、51年19連勝、新人王。記録は翌52年20に伸びる松田清に笑われた。

「ないはずですよ。ぼくがお相手で1時間でも2時間でもゆるい球をコツンコツンとトスバッティング。ゆるい球はよく見ないと打てないと言われましてね」

 川上は首位打者。巨人は南海と三たび対戦した日本シリーズに勝って3連覇。シリーズの首位打者、最高殊勲選手は4割8分1厘の川上。巨人史は伝統は受け継ぐものではない。戦い取るのだと教えている。 =敬称略=(スポーツジャーナリスト)