【越智正典 ネット裏】高校野球はまた歴史を綴り始めているが「100回」の夏を台湾新生報が8月23日に「日本甲子園高校100周年慶嘉義大学(嘉義農林)光輝歴史的大事」と大きな見出しで伝えていた。

 松山商業初代監督、嘉義農林監督、戦後引き揚げ後、新田高校の監督を務めた近藤兵太郎の最後の教え子、早大1960年春卒、東京六大学元先輩理事、亀田健は改めて、特に近藤家の簡素な生活を思い浮かべて敬いを深くした。彼は夫人から家計簿を預かっている。

 先年、道後に泊まり、朝「温泉」に行くと古老たちがコンピョー先生の思い出話に花を咲かせていた。

 近藤は道後の千秋寺の墓地に眠っている。山門前にいかにも俳都松山らしく句碑。

「画を描きし 僧今あらず 寺の秋 子規」

 亀田は近藤先生を讃える会の東京事務局長で、先年、映画「KANO」が封切られたときも日本での上映にも一生懸命だった。

 嘉義農林は31年、第17回大会の甲子園に初出場。ファンは万雷の拍手で迎えた。大会では3対0神奈川商工、19対7札幌商業。札幌商業の4番捕手佐川直行は戦後銀行勤めを辞めて阪神のスカウトに。10対2小倉工業。決勝は0対4中京商業(中京大中京)に敗れたが準優勝。立派だった。投手呉明捷は早大に進み主砲、東京六大学通算7本塁打。コゲ茶色のバットを握りしめて打席に向かう姿は、それは勇ましかった。

 呉明捷は戦後、台湾のチームが来日すると、牛込の運動具店に招いて選手一人ひとりに合うようにバットを削ってもらってプレゼントしていた。大きくなってから中日で活躍することになる郭源治少年は、米ウィリアムズポートでのリトルリーグ世界大会の帰りに東京に寄ったとき、水鉄砲を買ってもらって大よろこびをした。

 嘉義農林が33年の第19回大会に出場したときのエース呉波は近藤から「昌征」という名前を贈られた。近藤は松山商業での教え子、監督藤本定義に話をして37年、呉昌征を巨人軍に送った。ファンは「人間機関車」呉の爆進をたのしんだ。

 その後、阪神、毎日で活躍。ユニホームを脱いでからときどき後楽園球場に巨人の選手のサインを貰いに来ていた。知人に頼まれたのであろう。ボールがとどくとすぐ帰った。「野球は観るものじゃないよ。するものだよ」。

 私はそんな呉さんの散歩のお供をときどきしていた。渋谷や五反田の交差点で赤信号で止まったが、青に変わるといちばんはじめに歩き出すのは呉さんだった。まだ盗塁の練習をしていたのだ。

 あるとき「近藤先生の写真はないかな」。おとどけするとポトポト、涙を落として泣いた。涙はいつまでも止まらなかった。ことしは、コンピョー先生の生誕130年である。<次回に続く>=敬称略=(スポーツジャーナリスト)