カープのリーグVで思い出す「一振り人生」村上孝雄

2018年10月20日 16時30分

本塁打を放ち三塁コーチと抱き合う村上孝雄(右=当時は宮川孝雄、1964年8月)

【越智正典 ネット裏】リーグ優勝を決めたカープが見事に戦うと、私はいつも村上孝雄(旧姓宮川)を思い出し、献敬の思いである。

 1936年生まれ。彼は福岡県豊国学園、門司鉄道管理局で外野手として鍛えられ、スカウト自由競争時代の60年に広島に入団。チームには「ボス」こと大和田明、「ゴジラ」藤井弘、森永勝也。東京在住だがいまもオーナー東洋工業社長松田恒次の墓参りをを欠かしたことがない興津立雄。当時評論家だった青田昇が言っていた。「彼らが打撃練習を始めると皮の匂いがする!」。

 村上は170センチ、68キロ。彼は代打で生きようと決意する。契約金は300万円。先輩たちにとうてい及ばない。で、彼ほど走った男はいない。走りに走った。その姿は胸に迫った。その頃、彼はひょいと言っていた。

「お金のことを言うのは恥ずかしいんですが、一歩が一円、二歩が二円…そう思って走りました」。

 90年、キャンプイン前にMLB“留学”から帰国していた武上四郎に会うと「アメリカの選手は遠征先でも朝10時には汗を拭くタオルを持ってロビーに現れ、それから3マイルは走るんです。前の日の水分を取るんですよ」。

 村上は勿論、バットもよく振った。白いバットが真っ黒になっていた。バットを折らなかった。72年は一本。同じバットで打ち続けた。打率は代打ばかりで4割4厘であった。

「一振り人生」15年でバットを置くと、スカウトに。北別府学、津田恒美、高信二、江藤智、前田智徳、石貫宏臣…純真闘志を見抜いて獲った。立派だった。

 カープの3年連続リーグ優勝のチーム編成を見事にやっている苑田聡彦が、監督白石勝巳をはじめ関係者の「中西太二世」の期待のうちに三池工業から広島に入団したのは63年、18歳。心やさしい若者だった。

 はじめは定時制生徒。もうベテランになっていた73年、巨人との東北シリーズ。5月17日の朝、前夕仙台から着いた盛岡の広島の宿の前に、スター選手のサインが欲しくて少年たちがノートを抱えてむらがっていた。

 苑田が部屋から出て来て一人一人に、誰のが欲しいの…と聞き、とどけていた。旭川実業の元監督込山久夫は苑田の勝利を喜んでいる。「苑田さんに真ごころを教わりました。名スカウトです」。

 苑田はとんでもないところに目をつけている。16年、慶応大の投手加藤拓也をドラ1で指名したが、加藤は東京六大学の試合当日、日吉から神宮球場に来るのに東横線の渋谷の数駅前で降りて歩いていた。

 苑田は三池工業で監督原貢に育てられた。そのいつくしみを忘れない。お礼に、少年時代の原辰徳とよく遊んだ。65年夏三池工業は全国優勝。中堅手苑田邦夫は弟である。弟を甲子園に連れて行ってくれたと益々恩師に感謝し続けた。=敬称略=(スポーツジャーナリスト)