【気になるアノ人を追跡調査!!野球探偵の備忘録(67)】2009年、夏の甲子園。現西武・菊池雄星を擁し、優勝候補の筆頭に挙げられた花巻東(岩手)は、そのエースの負傷で苦戦を強いられた。絶体絶命の窮地でマウンドを任されたのは、それまで4番としてチームを引っ張ってきた男だった。今は投手として社会人野球でプレーを続ける猿川拓朗が、怪物のあとを託されたマウンドと、今なお抱き続ける仲間への思いを明かした。

「できるなら雄星に最後まで投げてほしかった。自分はほとんどピッチャーの練習はしてなかったですし、投げられるというだけ。バッティングもリリーフもやれだなんて『勘弁してくれよ』という感じでした」

 2009年夏、現ソフトバンク・今宮健太擁する明豊(大分)との準々決勝。花巻東は4回までに4点のリードを奪い、有利に試合を進めていた。異変が起きたのは5回。マウンドの菊池が一球ごとに腰に手を当て、苦悶の表情を浮かべる。このとき、菊池の肋骨は度重なる連投で疲労骨折を起こしていたことが、後になって判明。絶対的エースのあとを任された猿川は、当時のことをよく覚えていないという。

「テンパってたというか、行くしかなかったんで。ランナーはいたと思うんですが、はっきりとは覚えてない。逆転されたときは、終わったなと思いました」

 8回に3点を失い、4―6。それでも9回、猿川自らもバットで反撃し、3連打で同点に。そして延長10回に1点を奪い、菊池を欠いてなお、明豊を退けた。「雄星に頼らない野球」というのは、実はナインの合言葉だったという。

「準優勝したセンバツのあとに東北の強豪と練習試合をしたんですが、雄星の調子も悪くて、ノーヒットノーランもどきを食らったり、0―10で大敗したり…。監督から『お前ら雄星が投げても勝てねえのか! もうお前らで勝手にやれ!』と言われて、春の県大会は自分たちでオーダーを組んで臨んだんです。雄星には頼らず僕や後輩のピッチャーが投げて、自分たちの力で優勝できた。その経験が大きかった」

 死闘の末に準々決勝を制した花巻東だが、菊池の調子は戻らず、準決勝の中京大中京(愛知)戦は1―11の完敗。菊池と猿川、仲間たちの最後の夏が終わった。

 その秋、菊池は6球団競合の末、ドラフト1位で西武に入団。

 仲間たちはそれぞれ大学野球の道に進んだが、東海大で本格的に投手転向した猿川が2年の夏、仲間の一人が若くして亡くなった。

「亡くなる1週間前に電話があって、たわいもない話をした。特に変わったところもなかったのに…。それが最後の会話です。大学では同一リーグだったし、彼の大学からウチ(日立製作所)にきた後輩からいろいろ話は聞いたんですが、本当の理由はわからない。オープン戦とかでその大学のグラウンドをお借りするときは、その後輩と2人で手を合わせています。彼のためにも、という気持ちはもちろんあります。たぶん、雄星にも…」

 大学、社会人ではプロを意識したこともあったが、今は都市対抗での優勝が目標だ。

「僕、小学校のときからずっと全国大会に出てるのに、一度も優勝したことがないんです。ずっと準優勝だったので、優勝をしてみたい。雄星がいても果たせなかった夢を、自分のピッチングで果たしたいですね。西武も、今年はありそうですよね、日本一」

 プロと社会人野球、立場は違えど、2人の男は果たせなかった夢の続きと亡き友への思いを胸に、腕を振り続ける。

 ☆さるかわ・たくろう 1992年3月5日生まれ、岩手県盛岡市出身。小学校3年のとき、上田バンビーズで野球を始める。中学では盛岡北シニアに所属。花巻東では1年秋からベンチ入りし、2年夏からは4番・三塁でレギュラー。3年春夏に甲子園出場し、春は準V、夏はベスト4。東海大進学後は本格的に投手に転向。3年春に最多勝、最優秀投手賞を受賞しMVP。4年秋には全勝優勝を飾り、リーグ通算15勝。大学卒業後は社会人野球の日立製作所に入社。1年目にスバルの補強選手として準V、2016年にも準Vに貢献するなど、4年連続で都市対抗に出場。183センチ、88キロ。右投げ左打ち。