ブラジル初のメジャーリーガー「ずっと日本のプロ野球選手になりたかった」

2018年05月05日 16時30分

インディアンスの扇の要・ゴームズ(右、ロイター=USA TODAY Sports)
元局アナ 青池奈津子「メジャー通信」

【ヤン・ゴームズ捕手(インディアンス)】「正直なところ、すべてがショックだったね。ブラジルにはこんなに…野球が広く愛されるなんてことがなかったから」

 元ナショナルチームの水泳選手だった母クラーディアさんの仕事の関係で、12歳でブラジルからマイアミに移住したヤン・ゴームズに「最大のカルチャーショックは?」と聞いた。

「ブラジルだと当時、野球をやっているのは少し変わった子供だったからね」

 何せサッカー大国のブラジル。6歳の時から野球をしていたのは、元テニスプレーヤーでコーチに転身した父デーシオさんの教え子に野球チームの関係者がいて、誘われて試しに参加したからだったが「一瞬で野球と恋に落ちてしまったんだ」という。

 その日から、地元のクラブチームに所属。

「ブラジルの野球は、超日本的と言っても過言ではない。野球のコーチたちを『センセイ』って呼ぶし、ベースボールアカデミーでは、当時僕らは『ガイジン』って呼ばれていたよ。あはは、全然気にしていないから大丈夫。僕らは、サンパウロ郊外のモジィって町で育ったんだけど、幼いころの友人はほぼ日本(日系)人で、1人中国人がいたけど、日本の学校に行っていたって言ってもおかしくないくらい、アジアンカルチャーに染まっていたんだ。親友の名前はモキチ。いかにも日本でしょう?」

 当時は日本語も少し話せた。

「7歳から12歳まで、野球チームのキャプテンだったから、食事の前に日本語でお祈りの号令をかけなければならなかった。えっと、確か…『オネガイシマス!』」

 ヤンが日本語を思い出してあまりにうれしそうにしていたので「いただきます」ではないかとは、なんとなく突っ込まなかった。

 日本からブラジルに最初の移民が渡ったのが、1908年。奴隷制廃止で不足する農業労働者を求めていたブラジルに、日露戦争の後遺症で不況に悩む日本から多くの人が希望を抱いて故郷を後にしたが、現実は過酷な労働と感染病の流行などの苦しい事態に直面。つらい環境下、移民たちの心のよりどころの一つになったのが、野球だった。

 今やブラジルの日系人は約190万人、その広がりとともに野球も人気を集め始めている。

「さすがに同じ町に何チームも、とはいかなくて、少し大きめの町に野球クラブが1チームある感じで、あちこち出向いて対戦したり、大きな町に集まって大会が行われたり。僕がブラジルにいたころは野球もそこそこ人気があって、その後少し落ち込んだんだけど、2013年のWBC本大会出場で大きなニュースになってまた人気が出たんだ。最近では、MLBも育成に力を入れていて、変わりつつある」

 ヤンのように大リーグで活躍するブラジル人も出てきた。

「僕は、ずっと日本のプロ野球選手になりたかったんだけどね。幼いころ、テレビで見る試合といえば、イチローだったり松井秀喜だったり。メジャーなんてヤンキースがたまにやっていたくらいじゃないかな? ブラジルの野球少年なら、多分誰もがNPBを夢見ていたはずだよ。だけどね、この野球のおかげで、僕は米国で受け入れてもらえたと思うんだ」

 ブラジルへ渡った日本人の娯楽として発展した野球は、言葉も通じない米国の地で今度はヤンを助けてくれた。=次回に続く=

 ☆ヤン・ゴームズ 1987年7月19日生まれ。ブラジル・サンパウロ出身。188センチ、97キロ。右投げ右打ち。ポジションは捕手。2009年のドラフトでブルージェイズに入団し、12年にメジャー初昇格。ブラジル初のメジャーリーガーとなった。13年にインディアンスに移籍し、14年にはレギュラーに定着。135試合に出場し、打率2割7分8厘、21本塁打、74打点の成績を残し、捕手としてシルバースラッガー賞に輝いた。昨季までのメジャー6シーズンで74本塁打を放つなど、強打の捕手としてチームを支えている。