【気になるあの人を追跡調査!野球探偵の備忘録(19)】2006年夏決勝は、延長15回引き分け再試合の末、早実の優勝で幕を閉じた。早実・斎藤佑樹(現日本ハム)、駒大苫小牧・田中将大(現ヤンキース)の投げ合いは、10年を経た今なお、語り継がれている。引き分けとなったその試合、15回二死の場面で打席に立ったのは、駒大苫小牧の主砲・本間篤史。“メガネの主将”として、田中とともに駒苫黄金期を引っ張ったスラッガーが、伝説の死闘の裏側を明かした。

 本間にとっての“転機”は3年夏、甲子園本大会の直前の練習中に訪れた。香田監督は選手を集めると「キャプテンを田中から代えようと思う」と切り出した。それまでチームを支えてきたエース・田中将大からの突然の主将交代。新キャプテンには入学時からの明るいキャラクターと、日々の練習態度が評価され、本間が就任することになった。

「俺でいいのかなとも思ったんですが『田中の負担を減らすため。引っ張ってくれとは言わない、盛り上げてくれるだけでいい』と香田監督に言われて。入学したときからずっとムードメーカー、みんなを笑かすことには自信があった。内心、『開会式で目立てるぞ』とか考えてました」

 開会式で前年度優勝校の主将が持つ大優勝旗は重さ約20キロ。登板を控える田中の負担は何も精神的なものだけではなかった。「そういう目的もあったみたいですね。重かったですよ。リハーサルではあまりの重さに引きずって歩いたら怒られた」。大会中、バスの中では掛布雅之氏のモノマネや長渕剛の歌を披露。マスコミの取材ではメガネとよく似た風貌から「香田監督の息子」といじられるなど、本間は“盛り上げ役”としての役割を着々とこなしていった。

 3連覇のかかる駒大苫小牧は順当に勝ち上がり、決勝まで駒を進める。対するは“ハンカチフィーバー”に沸く早実。5万人の大観衆が埋め尽くす中、試合が始まった。

「周りが甲子園でホームラン打ってるなか、正直自分も、という思いがあった。何でだ、神宮大会では打てていたのにって。そのイメージしかなかった」

 斎藤と田中のシ烈な投げ合いは延長15回を迎えても決着がつかず、15回表二死走者なしの場面で、この日無安打の本間に打席が回ってくる。3球連続でボールも、球速は147キロ。延長15回とは思えぬ斎藤の力投に圧倒される間に、立て続けにストレートが決まる。フルカウント。

 ここで本間はあることを考えていた。「全部真っすぐ。なるほど、真っ向勝負だなと。それならと思い、欲が出た」。本塁打を狙ったフルスイングは、133キロのフォークに空を切った。

「どう考えても真っすぐの場面。当時は『そこで変化球投げるか? 普通』って思いましたね(笑い)」

 迎えた再試合も本間のバットは沈黙。一発狙いの大味なバッティングにこだわった結果は、2試合で8打数無安打5三振と散々なものだった。

「最後の打席のときも、ホームランという欲を出さなきゃ出塁できた。ひょっとすると単打狙いなら打てたかもしれない。チームを盛り上げるために目立とうとしてたのが、いつしか自分が目立つのが目的になっていた。4番としての役目も、キャプテンとしての役目もまったく果たすことができなかった」

 亜大進学後は1年春から出場するも、秋にファウルチップの際に左手首を骨折。バットはおろか茶わんすら持つことができず、4年春に復帰するまで悶々と時間だけが過ぎていった。故障後はバットを極端に短く持つフォームに変え、長打力は落ちたものの、現在もJR北海道の2番打者としてプレーを続けている。

 今では斎藤が北海道を本拠地とする日本ハムに入団、田中がメジャーへ進んだことで、斎藤と会う機会のほうが多い。

「将大も斎藤もまったく変装しないんで、ススキノで飲んだときなんか大騒ぎでしたよ(笑い)。会計は割り勘。プロ野球選手だけど、酒の席では同級生ですから」

 高校野球史に残る名勝負を経験した本間の“後悔”。チーム打撃に徹する今の打撃スタイルには、そんな背景もあったのかもしれない。

 ☆ほんま・あつし=1988年8月3日生まれ、北海道余市町出身。小学校4年生のとき余市沢町スポーツ少年団で投手として野球を始める。中学では余市シニアに所属、右翼手として2年秋に全道大会3位。駒大苫小牧に進学後、1年夏にチームが初の全国制覇を成し遂げると、秋の神宮大会から4番に座り、2年夏に全国制覇、3年夏には主将として準Vを飾る。亜大進学後、1年秋に左手首を骨折、4年春に復帰するまでシーズンを棒に振る。卒業後はJR北海道へ。現在は主に2番右翼で出場する傍ら、野球部寮では寮長として選手の統括にあたる。178センチ、90キロ。右投げ右打ち。