大谷翔平 父が目撃した少年時代の場外弾「歩行者用信号機をぶち壊してしまいました」

2021年07月23日 11時30分

花巻東高校の大谷翔平

【松下茂典・大谷と松井、太平洋に虹を架けた二人(連載3)】1994年7月5日午後9時、大谷翔平は岩手県水沢市(現・奥州市)で生まれた。母の加代子によると、体重は3400グラムだったという。

「大きさは普通でしたが、顔がきれいで新生児っぽくなく、生後何か月かの子供のようでした」
 名付け親は父の徹であった。

「最初は『義経』にしようかと考えましたが、名前負けすると思って断念(笑い)。まずは義経の空翔けるイメージから『翔』という文字が浮かび、義経ゆかりの地の『平泉』から一字をもらい『翔平』にしたんです」

 徹は岩手県に生まれ育っただけに、義経に思い入れがあったのである。

 面白いことに、大谷の故郷が義経ゆかりの場所なら、松井が産声を上げたのは、弁慶伝説の地(現・石川県能美市)。伝説とはいえ、義経と弁慶のイメージに、大谷と松井の風貌がぴったり重なり合う。

 今回は、そんな二人の父が目撃した場外ホーマーを紹介したい。

 翔平の父・徹は、かつて三菱重工横浜で俊足・強肩の外野手として鳴らしたが、長距離打者ではなかったという。

「私が翔平に指導したのは、右中間、左中間を割る二塁打を打ちなさいということだけでした」

 遠くへ飛ばす能力は天性のものだったらしい。

 翔平の少年時代、徹が目撃したいちばん大きな本塁打は、リトルリーグ時代の場外アーチだ。

「福島県相馬市の沿岸部にある野球場でした。翔平が放った打球は場外に飛び出し、道路の歩行者信号を直撃し、ぶち壊してしまいました。のちに球場があった場所は、東日本大震災の津波でみんな流されてしまいましたが…」

 大谷が天性の長距離打者なら、松井は努力のホームランバッターといっていい。

 野球経験のない父の昌雄がトスバッティング用のマシンを購入したのは秀喜が小学校6年生のとき。以来、秀喜は高校卒業まで、30分間のマシン打撃を一日も欠かさなかったという。

 星稜高校野球場の三塁側にある土手で、昌雄と並んで練習試合を見たのは、秀喜が高校3年の夏。そのとき、秀喜が高校通算58号を放つと、昌雄は何度も首をかしげた。

「秀喜の特大ホーマーを見るたび私の息子だとは思えんがです。私が見た一番大きなアーチは1週間前に能登へ遠征した際、七尾工業戦で放った場外ホーマー。右翼のフェンスを越え、民家の壁に当たり、ドスンという大きな音がしました。壁に穴が開いたのではないかと心配して見に行くと、被害者宅のご主人は『壁にヒビが入りましたが、いい記念です。松井君の将来を楽しみにし、このままにしておきます』と笑っておっしゃってくださいました…」(文中敬称略)

 ☆まつした・しげのり ノンフィクションライター。1954年、石川県金沢市生まれ。明治大学卒。「広く」「長く」「深く」をモットーに、アスリートのみならず家族や恩師等に取材し、立体的なドラマ構築をめざす。主な著書に「新説・ON物語」「松井秀喜・試練を力に変えて」「神様が創った試合」。近著に1964年の東京オリンピックをテーマにした「円谷幸吉・命の手紙」「サムライたちの挽歌」がある。

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