【元局アナ青池奈津子のメジャー通信=ディラン・バンディ投手(エンゼルス)】「母は、自分がどれだけ具合が悪いかを人に知られないようにしていたから、僕らは手遅れになるまで知らなかったんだ」

 ディラン・バンディは21歳の時、母ローリーさんを突然亡くしている。

 最後に話したのは、オクラホマ州の両親の家の隣に建てた自宅で開いた2013年の感謝祭ディナーだったというから、7年前のちょうど今ごろの話だ。

 11年にドラフト1巡目指名、翌年にはメジャーデビューを果たすなど、超期待の新人だったディランだが、13年春にヒジを痛め、6月にトミー・ジョン手術。

「休暇明けにリハビリのためにオリオールズの施設があるフロリダ州サラソタに戻ったところで、(3歳上の兄)ボビーから連絡を受け慌てて戻ると、母はすでに病院のベッドの上で延命装置をつけられ眠っていたんだ」

 ローリーさんはその年に2度の吐血を経験しており、がんの可能性があるとして受けにいった生検中に肺の動脈から内出血を起こし、危篤となった。末期の小細胞肺がんだった。

 検査の前、病院へ同行すると言ったボビーさんに電話で「大丈夫だから心配しないで。30分くらいで出てくるし、終わったらお父さんとクリスマスギフトを買いにデートに行ってくるから」と話したそうだ。

 物静かだが、ボディービルダーだったこともあるローリーさん。トイレが壊れたらバンディ家では母が直すのだ、と時に父デンバーさんよりも力強く、家族の接着剤のような存在だった彼女は、ディランが病院に駆けつけた5日後の12月5日に亡くなった。55歳の誕生日まであと10日だった。

「すごくショックだった…。すごく…。そんなに悪いなんて、まったく知らなかった」

「長いトンネルにいるようだった」と、母の死後、ややうつ状態にあったことを明かしている。

「永遠に当たり前だと思っていたものがなくなった時、トミー・ジョンのつらいリハビリでさえ、ありがたいものだった。少しの間、気を紛らわせることができたから」

 人生で最も印象に残っている出来事を聞いた時、ディランの答えは「かなり昔のことだけど、スパルタな父に鍛えられながら、庭で兄と一緒に野球を練習している時。いつも母が見守ってくれているんだ。それが、うちのファミリーの日常だった。一晩中、野球をやっていたい僕ら兄弟を『ご飯食べなさい!』って両親が説得している光景が浮かぶよ」だった。

 ルーティンが乱されるのを嫌い、思いつきで行動なんてしたことがないと話す。ローリーさん似なのか、あまり自分のことを積極的に話す方でもないようで、当時のチームメートらにも事情は説明しなかったそうだが、その半面、家族の存在の大きさや絆の強さを感じさせるエピソードは多い。

「母とのキャッチボールの思い出が今でも鮮明なんだ。すごくタフで、父がいないときは自らバケツいっぱいのボールを投げて練習に付き合ってくれるような、いかにも野球ママだったんだ」

 ローリーさんの話は特に声が弾むことを伝えると「当然!」と、本当にうれしそうな笑顔が返ってきてほっこりした思い出は、今でも優しい気持ちにさせてくれる。

 バンディ家では、毎年この時期に集まると、ローリーさんのためにろうそくをともし、一緒に狩りへ出たり家の修復作業をしながら、誰からともなく母の話をしては笑い合うのだそうだ。

 家族や友人らとの触れ合い、何げない会話、球場で見る野球。当たり前のものが実はとても貴重だったと誰もが痛感しているこのパンデミックが終わった時、一瞬一瞬をもっと大事にできる人間になれているだろうか。皆でそんな世の中をつくっていきたいと願う。

 ☆ディラン・バンディ 1992年11月15日生まれ。米国オクラホマ州出身。185センチ、90キロ。右投げ両打ちの投手。2011年のMLBドラフトでオリオールズから全体4位指名を受けプロ入り。100マイル(約160キロ)超の速球を誇る全米ナンバーワン高校生投手として、いきなりメジャー契約を交わし、12年9月に19歳でメジャーデビュー。13年以降はトミー・ジョン手術を受けるなど故障が続いたが、復帰した16年に36試合登板で10勝6敗、防御率4.02の成績を残した。その後はローテーション投手として定着し、17年13勝9敗、18年8勝16敗、19年7勝14敗。19年オフにエンゼルスへトレード移籍すると20年は6勝3敗、防御率3.29だった。