元局アナ 青池奈津子「メジャー通信」

【ブラッド・ジーグラー投手(ダイヤモンドバックス)】一見しただけでは大リーガーに見えない…と正直に伝えると「あはははは。ああ、そこにプライドを持っているよ」とうれしそうに答えてくれたブラッド・ジーグラー。

「確かに教会で人に出会った時に仕事を聞かれて野球選手って答えると驚かれるね。まぁ、一般的に『野球選手しています』って予想していない答えなんだろうね。でも、その後の会話が続くのは、僕は自分が野球選手だからではなくて、僕自身を面白いと思ってくれているといいなっていつも思っているんだ」

 野球の道が開けていなかったら数学の道に進もうと考えていたというおっとりと知的な彼は、ネタの宝庫だった。

「大学でドラフトされてフィリーズ傘下のチームに所属したけど、初めてのスプリングトレーニングで3週間で解雇されたんだ。プロの世界で投げたイニングはその時点で3試合各2イニングの6イニングのみ。フィリーズはたくさんの選手を春に呼んでいたから枠的にも人を切らなきゃっていうのはわかったけど、なんだかただそこにいただけで、チャンスをもらえた気がしなかった。自分のことをちゃんと見てもらえた気がしなかったんだ」

 自分はドラフト20巡目。

「トレーニングにおいてはそんなに差はないと思ったけど、高いお金を払った高順位の選手は、チームも投資した分を取り返したいから、より失敗するチャンスをもらえていた気がしたね。それに比べると僕がどんな選手で、どんな練習をして、どんな球を投げ、頂点にたどり着くまでにどのくらいの覚悟があるのかなどは、全然見てもらえなかった」

 フィリーズはブラッドをリリースする時、理由は特に言わなかったそう。

「『ここに帰りのフライトのチケットがあるから。ここで過ごしてくれた時間を感謝しているよ。今後の君に幸運を祈っている』とだけ言われたんだ。当然、そんなに早くリリースするなら何で契約したんだって思うよね。すぐに代理人に電話して『これで終わり? 本当にここでおしまい? もうチャンスはもらえないのか? 教えてくれ!』って言ったのを覚えているよ。時期的な問題で他のメジャーの球団は難しかったから、代理人が独立リーグとの契約を取ってくれたんだ」

 ただチャンスが欲しかったのだ、とブラッド。独立リーグでの努力でそのチャンスを再びつかんだ彼は、翌年アスレチックス傘下のマイナーチームに所属した。一度解雇された経験があるため、悪い登板の翌日は解雇されるのではないかと、長いこと怖かったという。

 そんな矢先、思いも寄らぬ事故が起きてしまう。

 2004年9月、1Aでプレーオフ中にピッチャーライナーが頭に当たり、ブラッドは頭蓋骨損傷で病院に救急搬送されたのだ。ICUで時間を過ごし、オフシーズンいっぱい休養しなければならなかった。

「でもね」と落ち着いた声で話すブラッド。

「割と大きな出来事ではあったけど、僕にとっては何も変わらなかった。医者が大丈夫って言った瞬間から、すぐに野球がしたかった。ボールが頭に当たったからって特別な扱いは受けたくない。ちゃんと自分の力でポジションをつかみたい。誰の同情も欲しくないって」

 ブラッドは、打球が頭に当たったことを「天文学的に低い確率で起こった事故」だと話す。幸いにも後遺症はない。再び球が当たる可能性は「天文学的に低い」と周囲の心配をよそに春から再びグラウンドに戻った彼。今ではキャリア11年目のベテラン投手だ。

「僕にわかっていたのは、自分がコントロールできるものは少ないということ。フィリーズをリリースされた時、僕にできることはなかった。だから、今できるのは最大限の準備をして、最高の投球を見せることなのだ、と」

 一切の手を抜かない野球…。それができた者だけが、10月のポストシーズンに進出できるのではないかと、緊張感が高まる秋の野球に、日々胸を躍らせている。

 ☆ブラッド・ジーグラー 1979年10月10日生まれ。38歳。米国カンザス州出身。右投げ右打ち。投手。ミズーリ州立大から2003年のドラフトでフィリーズの20位指名を受けてプロ入り。04年3月に解雇されると、独立リーグを経て04年6月にアスレチックスと契約。06年オフに上手投げから下手投げに転向し、07年にメジャーデビューを果たすと、クローザーに定着した。09年第2回WBCに米国代表として出場。11年シーズン途中にダイヤモンドバックスへ移籍し、15年には30セーブをマークした。16年レッドソックス、17年マーリンズと渡り歩き、18年7月にダイヤモンドバックスに復帰した。