【気になるアノ人を追跡調査!!野球探偵の備忘録】1998年7月18日、青森県営球場。夏の地方大会初戦のこの日、深浦(現木造高校深浦校舎)は東奥義塾に0―122という歴史的な大敗を喫する。全国ニュースで取り上げられ、いきなり世間の賛否両論にさらされたみちのくの球児たちは、どんな思いで試合に臨んでいたのか。“史上最大のワンサイドゲーム”の真実を、当時の監督が明かした。

「もう20年以上前の出来事で、記憶もだいぶ薄れてきました。それでも、6回に選手がグラウンドに出て行ったときの大声援は忘れられません」

 当時25歳、監督就任1年目だった工藤慶憲は歴史的試合をそう振り返る。赴任当初、部員は4人。熱心な勧誘で新入生6人が入部したが、野球経験の不足は明らかだった。

「キャッチボールもままならない感じで、バッテリーを作れるだけの選手がいなかった。ストライクが入らないし、フライがまったく捕れない。それでも、さすがにあれは想像してませんでしたが」

 迎えた夏の初戦、相手は4度の甲子園出場を誇る私立の古豪・東奥義塾。深浦は初回から39失点、ようやく3つ目のアウトを取るころには、すでに1時間近くが経過していた。終わりの見えない猛攻が続くなか、数え切れないほど腕を回した東奥義塾の三塁コーチは熱中症で救護室に。深浦の選手にも明らかに疲労の色が浮かんでいた。通常、けがなどで選手がいなくならない限り棄権となることはないが、試合展開は想像を絶していた。

 当時の青森県は5回コールドの規定はなく、7回までは戦わなければならない。5回終了時、工藤はナインを集めて一人ひとりに問うた。

「試合続行か、放棄か、それとも決断を私に委ねるかの3択でね。ほとんどが私に任せると。なかには『もうボールが見えません』と言うやつもいた。そのなかで、エースの佐藤が一人『監督の判断でいいです。ただ、応援してくれてる人もいるんですよね…』と決めかねていた。整備が終わっても長いこと出てこなかったので、スタンドがざわつき始めて、審判の方にもせかされて。じゃあ、出しましょうかと」

 ナインが守備位置に駆け出した瞬間、球場は割れんばかりの歓声に包まれた。部員数の多い東奥義塾のスタンドにはメガホンを持った控え部員がいたが、深浦スタンドは保護者の姿さえまばら。声援のほとんどは大差でも観戦をやめない、一般の観客によるものだった。

「一瞬、何が起こったかわからなかった。佐藤に言われるまで、私自身も応援されているということ自体を忘れていた。その回から、選手は変わりましたね。動きは変わらずとも、表情がみるみる生き返っていった」

 結果は打者5人に計6度のサイクル安打を浴び、打線はノーヒットノーラン。7回コールドも、149打席で86安打、7本塁打、76盗塁と記録的な数字が並んだ。全国ニュースでも大々的に取り扱われ、両校には「よく頑張った」という称賛の一方「試合に出る資格がない」「そこまでやるべきではない」という否定的な声もあった。

 東奥義塾は次の試合で工藤が前年まで臨時講師をしていた田名部と対戦。かつての教え子たちが「敵討ちだ」という言葉通り、14―2のコールド勝ちでこれを破ったのも不思議な因縁だ。

「だいぶ脚色されて、道徳の教材になったりもしました。みんな美談にしたがりますが、何が何でも試合を続けたいという強い気持ちがあったわけじゃない。ただ、投げやりになったり、ふてくされたりはしなかったあの子らを、最後まで応援してくれたことがうれしかった。子供たちの可能性は計り知れない、それに気づかせてくれた大敗です」
 深浦は2007年、生徒数の減少による統合で木造高校深浦校舎に名前を変えた。それでもあの日“史上最大のワンサイドゲーム”を前に応援することをやめなかった青森県民の野球熱が「0―122」を忘れることはない。

 ☆くどう・ひろのり 1973年1月16日生まれ、青森県八戸市出身。図南小4年のときに野球を始める。長者中では軟式野球部所属。八戸北では外野手として3年夏に県ベスト16。宇都宮大では軟式野球部でプレーを続ける。大学卒業後、97年に田名部に臨時講師として赴任。98年から深浦に移り監督に就任。その後八戸東、八戸北を経て2017年からは青森県庁学校教育課で業務に携わる。177センチ、80キロ。右投げ右打ち。