30年前東邦Vの球審・布施勝久が歩んだ審判道

2019年04月21日 11時00分

【越智正典 ネット裏】布施勝久が審判指導と会議の甲子園から帰ってきた。平成最後のセンバツが東邦高優勝で閉幕したが、30年前の東邦優勝の決勝の球審を布施は務めている。布施は見事な歩みをつづっている。

 その布施に会った。彼、郷司裕(明大、17年殿堂入り)、山川修司(慶大)、鈴木康夫(立大)、西大立目永(早大)。往時、この審判五人男ほど野球を語り合い、励ましあった男はいない。

 郷司は「試合が終わり、木かげで汗をふき、涼むときが幸福です」。山川は誠実。鈴木は日系人が多いブラジルを愛し、左利きの西大立目は、深夜、家の近くの中学校庭のそばで、右手を真っすぐ伸ばし高く上げる練習を繰り返し、早大名誉教授になっても続けていた。よき時代のドジャースのオーナー、ピーター・オマリーは、彼に心打たれていたが、発音が難しい…と、微笑とともに「ミスター・ロングネーム」の愛称を贈った。

 布施は「佐伯達夫先生(元日本高野連会長、81年殿堂入り)の至言を甲子園で思い出していました。“1試合の野球の正味時間は1時間、あとは試合を進めて行くための時間”と、いつもおっしゃっていました。センバツの決勝が1時間30分で終わったのがうれしかったですよ」

 高校野球はいよいよ令和の“夏”であるが、布施は54年日大三高から明大に。57年、長嶋茂雄らの黄金の立教大に土をつけたときの殊勲の4番打者である。監督島岡吉郎は「みんな命がけでプレーをするんだッ!」。“御大”の「なんとかせい」が有名になったが、右の呼びかけがそのもとである。

 1年下に田島元(平安高コーチ)、2年下に池田英俊(福岡高、広島、大洋、中日投手コーチ)。池田は明和寮で部屋長だった布施に多くを学び、卒業後も慕っていた。3学年下の1年生に小林正三郎(明治高、明治高校校長、駿台倶楽部副会長)。

 プロ野球が長嶋茂雄巨人入団に湧いた58年、布施は社会人野球大和証券に。彼のドラマが始まろうとしていた。26歳で社命で監督に。入社のときの保証人、あの名解説の明大先輩小西得郎(71年殿堂入り)、ノックの達人、同明大先輩、岡田源三郎が喜んだ。人物――と見ていたのだが、布施の後輩を慈しむ心やさしさに感銘を深くしていた。

 が、同社の事情からチームが解散。島岡が彼を呼んだ。「審判になれ。ご奉公に行ってこい」。東京六大学、東京の高校野球、社会人野球、甲子園大会、国際審判、審判指導員…。自己研鑽。プレーの判定はゴー、ストップ、ルック、コールと会得した。先年、私も彼を訪ね、この基本を教えていただいた。人知れぬ彼の修練を思った。

 そういえば巨人熱血寮長、武宮敏明が「アマチュアの審判布施君が紹介状を持って多摩川に来たよ。彼の基本論はその通りだ。勉強家だなあー。いい男だ」。

 布施勝久。身辺清潔な男でもある。 =敬称略=