【越智正典「ネット裏」】日本のリトルリーグのチームとして昭和42年、初めて世界大会で優勝した「西東京」は、東京武蔵野市立第二小学校の少年たちが市の少年大会に出るために「ひかり」チームを作ったのに始まる。彼らはどんなことでもみんなで相談して決めた。少年力は凄い。

 投手はペコちゃん。捕手はモトちゃん。モトちゃんはちいさいときからおとうさんに「男はつらいことにあっても負けてはいけないんだ、いまから練習しておこう」と、勤め先の国鉄武蔵境北口商店街のそばの空き地で、おとうさんがひる休みにビュンビュン投げる本ボール(硬球)をキャッチして来た。

 みんなはモトちゃんの頑張りを見て来た。それに4年生のときにもう野球規則を全部暗記していた。そこで捕手で主将に。もうすぐ中学にというときにチームメートの一人が横田基地の近くの友だちから聞いて来た。

「リトルリーグというのがあるんだって…名前忘れちゃったけど、軍曹が作っているんだって。勝つとアメリカへ行けるんだってさ」

 父兄の一人、ヤンマーディーゼルの総務部長塩野正朗が少年たちに夢をと肯く。塩野は前回話したように、通産省の山本審議官や水上達三三井物産社長に建言。基礎を作ったかげの功労者だが、最初の世話は球ひろい。硬球はあぶないので市内の学校の校庭は借りられない。残っていた占領軍の米軍関係者子弟の学校の校長米軍人に会いに行って、日曜日に練習が出来るようになった。規則でチーム名は地域を表さないといけないので「西東京」になった。モトちゃんが関西代表との決勝戦でクリーンヒットを放って優勝を決めた。

 野球も「アヤ」は不思議である。少年たちを預かり、まとめて来た監督、武蔵野市の小学校の先生が校務で渡米出来なくなった。少年の一人がひょいと「(調布から遊びに来て仲間になった)林(清一)のおとうさん(林和男、日大二中<高>、早大準硬式投手)は野球をやっていたんだって…。きっと行ってくれるよ」。林和男が監督を承諾した。

 昭和46年、私はアメリカ、ペンシルベニア州ウイリアムズポートへ、リトルリーグのサマーキャンプを見に行った。日本では苦労が多いのに一生懸命少年たちに尽くしている立派な指導者が少なくなかったが、反対にこの運営はどうかな…と思えるリーグもあった。何かと勉強になるだろうと訪れたのである。

 少年たちが全米各地から長距離バスを乗り継いでやってくる。参加資格はただひとつ、父兄の送迎禁止。冒険旅行で始まる。夏季キャンプでは野球はほんの少しで山登りや渓流へ魚釣り。夕方戻ってくると英語と世界地理の勉強。この勉強が重視されていた。

 晩ごはんが終わると、林のなかのバンガローの前でフォークダンスと花火大会。星がきれいであった…。日本に戻ったら土産話を持って、少年野球を大事にしていた青バットのホームラン王大下弘を表敬訪問出来る。

「少年たちはみんないいよ。リトルは大人がしっかりすることだよ」 =敬称略=

 (スポーツジャーナリスト)