半世紀前にリトル世界一に輝いた「西東京」の軌跡〈前編〉

2020年07月09日 11時00分

【越智正典「ネット裏」】日本のリトルリーグの代表チーム・西東京がアメリカ・ペンシルベニア州ウイリアムズポートでの世界大会決勝でアメリカ代表を破って、初めて優勝したのは1967年、昭和42年のことである。

 米コミッショナー事務局の局員、モンテ・アービン(昭和28年秋、NYジャイアンツの選手で来日)が「すぐにヤンキー・スタジアムのメッセージボードで日本の少年たちを祝福しました」と知らせてくれた。米社会でリトルリーグがこのように受け止められているのを感得した。このときから少しのちのことになるが、ドジャースのよき時代の名オーナー、ピーター・オマリーは要請を受けてリトルリーグの財務委員長に就任している。

「西東京」世界一のMVPに二塁手塩野剛士くんが選ばれた。米ブルーブック社長、アル・ホルステッドが「大会史に残るスーパープレーを2度も見せてくれた。ビューティフルだ」と、のちのちまでも言っていたが、剛士くんは日本に帰ってくると「試合前にみんなで芝生に寝ころんでいたときがたのしかったです。あっ、それからぼくらの世話をしてくれたエドおじさんにまた会いたいです」。話の様子では、休暇を取って大会の奉仕に来ていたケンタッキー州の州知事らしかった。

 話は武蔵野市立第二小学校の4年の仲よしたちがチームを作ったときに始まる。彼らは野球規則を全部暗記していたモトちゃんを尊敬していて、キャプテンを頼んだ。“キャッチャーも頼むよ”。少年力は凄い。ピッチャーはペコちゃん。おとうさんが毎朝キャッチャー。外角にストライクを10本とおしてから登校した。

 チームの名前もみんなで相談。「ひかり」に決めた。ペコちゃんのおとうさんが鉄道研究所に勤めていた。“新幹線ひかりは凄いんだぜ”。みんなが6年生になったころ、一人が横田基地の近くの友だちから聞いてきた。少年たちは遠くまで遊びに行っている。

「リトルリーグっていうのがあるんだって。勝つとアメリカへ行けるんだってさ!」

 前出剛士くんの父親塩野正朗が少年たちの夢を…と硬いボールの球ひろいを始めた。いつも、おだやかな微笑を浮かべている氏には別の思いがあった。

 日本はこれから国際社会で生きていかなければならない。ヤンマーディーゼルの山岡社長の懐刀で総務部長の塩野正朗は、通産省の山本審議官にリトルの話をする。意気投合。郷里山梨の先輩水上達三三井物産社長にも力添えをお願いした。選手たちは東京府中の三井の総合運動場、現明治大学内海・島岡ボールパークで試合ができるようになった。いまの雨天練習場のところに当時品のいいクラブハウスがあった。塩野正朗は見事な功労者である。

 チームの名前は地区を表記しなければいけないので「西東京」になった。西東京はモトちゃんの殊勲の決勝打で日本代表になった。すると総裁マック・ガバンが信頼する塩野に相談し助言を求め「みんなで世界大会に来て下さい」。規則では全日本はいけないのだが、準優勝の関西の少年たちを加えてほしかったのだ。リトルリーグの普及を願っていたのだった。 <続く>                                                                                                     =敬称略= (スポーツジャーナリスト)