昭和6年の古関裕而 「紺碧の空」デビュー戦

2020年04月25日 11時00分

【ネット裏・越智正典】昭和6年春、早稲田大の各学部のクラス委員で結成された新応援団は、4月20日の入学式が終わるのを待って22日、大隈会館の日本間で総会を開いた。部屋に入れないで庭に立っている団員もいたほどの熱気だった。

「紺碧の空」を作曲した古関裕而は明治42年(1909)8月11日、福島市大町で生まれた。家は老舗の呉服店「喜多三」。小学校のときに大好きなおかあさんから当時珍しかった卓上ピアノをプレゼントされたのが音楽への歩みのはじまりだった。福島商業卒業後、ハーモニカソサエティーで活躍。指揮者になり、ロッシーニやメンデルスゾーンを演奏するときは編曲に専念。昭和5年、コロムビアの専属作曲家になり上京。21歳。けわしい昭和が始まっている。ヒット作がなかった。新妻の金子が支えていた。

 古関はつらいときなのに人に尽くした。作曲の話を持って来てくれた。同郷の伊藤茂(安積中)に連絡した。

「出来ました。楽譜が読める方に逢いたいです」

 今治中、第二高等学院2年、越智倫三郎が名乗りをあげ、伊藤と世田谷代田の古関の家へ飛んで行った。越智は昭和2年の入学だったが、胸を悪くして四国に帰り、鈍川小学校で代用教員をしていた体験が役立つ。音楽の授業を受け持っていた。

 楽譜を渡されたとき、越智は胸を熱くした。伊藤は涙ぐんだ。早稲田カラーのエンジの表紙で飾られていたのだった。

 古関は「『すぐりし精鋭』のところは、す、ぐ、り、しと一言一言、歌って下さい。力強くなります」「『覇者、覇者』のところは明瞭度がうすくなりますから、ハシャ、ハシャと元気にお願いします」。古関は練習会、発表会にも来会した。新応援団渉外係の、富山県高岡中学、第一高等学院、政治経済学部、土倉尚之はグラウンド下の運動具店で小遣いをはたいて、2円50銭でWASEDAのペナントを二つ買ってお礼に古関と作詞、学内募集当選の住治男に贈った。土倉は後年「ありがとう、ありがとうと何度も言ってくれた笑顔が忘れられません」。

「紺碧の空」は昭和6年6月13日、早慶1回戦でデビューした。両校申し合わせで早稲田“先攻”で、午前11時応援戦開始。旗手は金沢二中、高等師範部本科1年、寺田正明。はじめに「都の西北」。終わるとリーダーが「第六応援歌、紺碧の空!」。試合は早1対2慶。鉄腕伊達正男が3連投になる。2回戦は早6対3。2対2の同点の7回二死満塁。三原脩が本盗。高松中学の野球部部長、根津繁三郎が讃える。「奪取本営奏殊勲」。慶応の投手は水原茂。「宿命のライバル」のドラマが始まる。

 3回戦は早5対4。早稲田は神宮球場から優勝行進。このときコロムビアでは「紺碧の空」のレコーディングを決めた。古関の初のヒット曲である。昭和51年、往時の男たちによって大隈庭園前庭に紺碧の空45周年記念碑が建てられ、10月29日除幕式。献花ののち古関裕而が挨拶した。「歌のいのちは多くの人に歌われることです」

=敬称略=(スポーツジャーナリスト)