南海創設メンバーと甲子園初出場・加藤学園の縁

2020年03月14日 11時00分

【越智正典 ネット裏】センバツの春である(3月19日開幕)。昨年、「夏」が終わり各校が新チームになったとき、日大三島高、中央大、東都大学審判、土屋伸司が「沼津の加藤学園が秋の大会で頑張り、来年春のセンバツにきっと甲子園へ行きますよ」と言っていたがそのとおりになった。加藤学園は春夏をとおして甲子園初出場である。

 そう言っていた土屋伸司は用事があって上京すると、いまは公園になっているが、練馬区立野町の、昔の中央大学のグラウンドを訪ね、空を見上げ、黒ポカの土をすくい、恩師中央大学元監督宮井勝成を思っている。「監督はお元気だあー」。

 土屋はいまは伊豆修善寺でとんかつ専門店を開いているが、こういう男だからみんなに慕われている。定休日には町内会の世話に忙しい。中央大OBはもちろんだが、駒沢大、慶応大OBが折々に彼の店に集まり野球談議。どうして彼がはやくから加藤学園がセンバツに行くと思ったのか、電話をかけた。

「いやあー、恐縮です。米山守監督は内田俊雄監督が亜細亜大学の監督(現拓大監督)のときの教え子ですが、ちょっとしたことにも一生懸命なんです。授業(社会)も受け持っています(41歳)。部員は選手37人ですが立派です。それに彼は、自分はひとりではない。お世話になった先輩がいると、いつも思っているんですよ」

「加藤瑠美子校長先生のおよろこびはこの上ないと思います。いや感無量でしょう。校長先生のおとうさん、高野百介さんは高校野球の名門、松本商業(松商学園)の選手だったと伺いました」

「東京六大学の立教大学に進み、それから南海軍(南海ホークス)が誕生すると入団されたんです」

 記者会の大先輩石崎竜氏によると、南海野球株式会社の大阪法務局への届け出は昭和13年(1938年)8月3日。これに先立って南海は日本職業野球連盟に加盟を申し込み、職業野球9番目の球団として認められたが、実力未知の球団をいきなりペナントレースに参加させるのはどんなものか、しばらく様子を見たいという意見が出て春のリーグ戦出場はおあずけになった。4月1日、国家総動員法が公布された。日本は戦時体制が強化される(昭和13年は年二季制)。

 発表されたメンバーは監督が慶応大、往時の「大毎野球団」の高須一雄。選手は投手4人、捕手2人、内野手6人、外野手2人の14人。高野百介さんは外野手であった。8月27日秋季戦開幕。南海は後楽園球場で巨人とぶつかった。高野さんはレフトを守り3番を打った。試合は3対4。南海は惜敗した。

 高野さんは出場40試合。昭和13年、在団1年で退団した。召集令状が来て応召。戦死されたのだ。前記、土屋伸司はしみじみと「校長先生のおとうさんは泉下で加藤学園の初甲子園をよろこんでおられますよ」。
 =敬称略=