人造りを貫いた東都の名将・内田俊雄

2019年12月21日 11時00分

拓大野球部の内田俊雄監督

【越智正典 ネット裏】拓大監督・内田俊雄(73)が退任する。内田は選手交代のときにはベンチからちゃんと出て来て帽子を脱いで審判に一礼後告げている。投手激励や交代でマウンドに行ったときは走って戻る。若いときのようには走れないが彼の誠を見る思いがする。明大善波達也に続いてそういう男が去る。

 亜細亜大学青々倶楽部(OB会)元会長関勝治は万感の思いで「内田監督は人造りを貫いてくれたなあー」。広島商、亜大。三協精機では大型二塁手なのに球ひろいに励んだ。1977年亜大コーチ、78年監督。東都優勝13回、全日本大学選手権優勝3回、明治神宮大会優勝2回。試合が終わるとマネジャーをいたわり車に乗せ、自分で運転して東京西多摩郡日の出町の合宿所へ。マネジャーは早朝電車で神宮球場へ。連盟へ挨拶、試合の準備…多事である。関智哉(JT)、石塚弘(宝塚医療大)…も車中で休めた。

 東都2部、神宮第二球場には“大監督”がいた。選手交代。ベンチに球審を呼ぶ。球審が“ご用聞き”に行く。1部にも審判に猛抗議をすることだけが務めだと思い込んでいる男がいる。勿論、内田ではない。

「内田監督はときどきご馳走をしてくれました。監督は店から領収書を貰いません。部費からではなくポケットマネーなんです」と、マネジャーたち。彼らは高いものを注文しなくなった。遠慮していると察した内田はうな重をみんなに振舞った。

 内田ほど教職志望の4年生の教育実習を受け入れてくれた高校にお礼の挨拶に行った監督はいないだろう。心打たれた明徳義塾監督馬淵史郎はこの男!と亜大を退いていた内田にまだ3部だった母校拓大の再建を頼んだ。2006年3月1日、練習開始第1日。高尾の奥の拓大キャンパスのグラウンドに内田の亜大のときの教え子井端弘和(19年侍ジャパンコーチ)から感謝の手紙と数本のバットが届けられた。

 数日後再訪した私はあっと声をあげた。グラウンド脇に洗濯機が3台備えられていた。練習が終わると、まず内田、それから選手がユニホームやシャツを洗濯。本塁うしろの桜の樹から樹へロープを張って干していた。身辺清潔。いまの合宿所はまだない。選手は分散民宿。女子寮用に借りていたアパートにも。せまかった。内田は就任したときから退くときをさぐっていたと思える。まだ2部だが、チームは整い固まった。大学の要請であろう。3月末まで新監督馬淵烈(史郎の長男)の後見。グラウンドは「桜」がキレイであろう。

 12月12、13日、有志が山梨県笛吹市、岩下温泉に集まる。内田の送別会ではない。例年どおりである。前記関勝治のはからいで井端を招いている。亜大時代、井端は居残りで内田にバットを振れ!といわれたが「よーし」と、声がかからなかったので朝まで振っていた。関の解説。「内田監督が家に帰っちゃったんですよ。忘れちゃって」。「ごめん、ごめん」。内田が頭をかく、爆笑の宴である。 =敬称略=