大船渡・佐々木で思い出した昭和33年の魚津高校

2019年08月31日 11時00分

【ネット裏 越智正典】U18全日本に選ばれた注目の大船渡佐々木朗希がナインと共にW杯の韓国に向かって飛び立って行った。

 改めてあの村椿輝雄を育てた富山県立魚津高校の監督宮武英男が思われる。村椿は県大会のときから宮武に教えられたとおりにチェンジになってもマウンドに残り、スリーアウトのボールを受け取ると、そっとマウンドに置いて帰陣した。相手校投手への思いやりであり、戦いへの敬意であった。昭和33年の夏、第40回大会で第1戦、強豪浪商と対戦(2対0浪商)したときもそうであった。

「魚津に万雷の拍手を頂きました。県大会のときはそれほどでもなかったのですが、甲子園は凄いです。有難いことでした」

 宮武は昭和3年に都市対抗全国大会で優勝した大連実業の遊撃手だったが、彼の歩みは戦後史を見るようである。敗戦。シベリアに拘留され、昭和23年10月、引き揚げ船で帰国。運がよければ帰っているかも知れない…と舞鶴から奥さんの故郷魚津に向かった。夫人は無事だった。中学の国語の先生のクチが見つかった。春になると評判が立った。

「生徒と一緒に軟式ボールをやっている宮武先生は身のこなしがちがう。昔、鳴らした人らしい」

 魚津高校の校長が訪ねて来た。監督を…と要請された。お断りするのは非礼と承諾。このとき46歳。教員免許を改めて取るために勉強するには時間がない。奥さんと学校の購買部で働くことにした。のちに奥さんは練習がきびしくなると汁粉を作って選手に食べさせる。

 監督を引き受けたのは昭和26年8月のことである。9月1日、名古屋に民放初のラジオ局、中部日本放送、CBCが開局。午前6時30分放送開始。正午に大阪梅田、阪急デパートの屋上の局舎で新日本放送(毎日放送)が放送開始。9月4日にサンフランシスコで講和会議が始まり、8日、対日平和条約が調印された。

 監督就任から3年目の昭和28年、魚津高校は県大会で優勝したが北信越では勝てなかった。宮武は全国優勝のレベルを知ろうと昭和30年夏、甲子園に見学に。左腕高橋正勝(巨人)三重県四日市高が優勝。終わると浪商山本八郎(東映)らの高校全日本が編成され、戦後初の海外遠征。ウェーク島で給油ののちホノルルへ。

 九州の高校野球の功労者、大正女学校の教諭。昭和6年から小倉工業の教壇に立ち「組主任のときがよかった。組に悪いヤツがおったら根性を叩きあげる」が口癖の森定香が見込まれてマネジャーで同行。「イタズラ坊主が揃っていた」と帰国談。高校全日本は7勝3敗。ハワイ大学との最終戦で新宮高校の前岡(井崎)勤也(阪神、中日)が奪三振17。

 翌昭和31年、隣町の黒部高志野中学から村椿が入学して来た。目立たない生徒だったが「半年は雪に埋まる日々の練習に耐えられる」と宮武はこの1年生の投法を横手投げからスリークォーターにした。(つづく)

=敬称略=