昭和32年秋 明大ナインを奮起させた「猪パワー」

2019年06月29日 11時00分

明大の島岡吉郎監督(1984年)

【越智正典 ネット裏】人間力監督・島岡吉郎は、明大でいちばんはじめに「猪突猛進」と、ユニホームのソデに猪のワッペンを付けた、大正4年卒業の山村一郎を心から尊敬していた。山村はあの名解説の小西得郎やパの会長を務めた中沢不二雄よりも先輩。大先輩だが京王電車つつじヶ丘が最寄の調布球場(当時)で練習手伝いをするときは背広姿ではなく、ユニホームに着替えて球ひろいをするのだった…。

 昭和32年春、明治は最下位。2勝10敗1引き分け。“御大”初の最下位である。長嶋茂雄らのあの立教が優勝した。島岡はいまこそ猪のワッペンを付けるんだ!と、チーフマネジャー吉田秀男を呼んだ。「猪を探せ」。二人は合宿所を飛び出した。

 私は昔から吉田にお世話になった。当時、戸越銀座商店街で勢いのいい猪の像を見つけ、これがワッペンのデザインになったと聞いたが記憶は遠い…。

 吉田秀男は昭和29年明大中野から進学。同期は左腕・浮貝文夫、捕手関藤篤志、国際審判・布施勝久、「悪役商会」八名信夫、近藤和彦(大洋、故)。

 卒業後、母校明大中野に監督に迎えられたが、ちょうどこのとき三協精機が発足。島岡監督から初代監督・野瀬昌三の「エンの下の力持ちになれ」。監督を辞して諏訪に赴いた。プロ野球ふうにいうと球団総務、GMに相当するが、夕暮れの球ひろい、夜の礼状書きから仕事を始めた。こうして昭和36年都市対抗全国大会初出場を果たすのである。

 私は念のためにもう一度吉田に尋ねた。聞いているうちに戸越銀座は、瀬戸物店での“御大”の別の思い出なのを思い出した。記憶違いだった。

「“御大”は甲州街道の骨董屋さんに片っぱしから飛び込みました。気に入ったのがなかったのですが、いまの新宿南口の店でとうとう見つけました。“これだ!”」

 ナインは奮起した。昭和32年秋、立教戦は1回戦はなんと0対8だったが、2回戦2対1。3回戦2対1。黄金の立教に勝った。勝ち点を挙げた。優勝は立大だったが9勝2敗。追った明大9勝5敗、3位法大、以下早大、慶大、東大…。

 吉田は永く、明大野球部OB会「駿台倶楽部」の財務委員長を務めたが、顧問になってからも益々、母校愛を貫いている。先年、JR、メトロ東西線三鷹駅北口から1分。武蔵野市中町、武蔵野市文化事業団の、武蔵野芸能劇場で、人間力監督・島岡吉郎の講談会を開いたが、6月25日に同劇場で「講談明治大学」を開催した。一龍斎貞弥の「秋山土井の黄金バッテリー」。「お仲入り」の神田紅の、名作曲家「古賀政男」も泣かせた。「木戸銭」2000エン。

 吉田秀男は朝はやく劇場に。事業団、劇場関係者に挨拶。開演時間が近づくとお客さんや、明大マンドリン倶楽部の校友一人ひとりに丁寧にお礼を述べていた。二席ともそれぞれ50分の熱演であったが、ハネたときも一心に挨拶。エレベーターで下まで見送っていた。 =敬称略=