職業野球時代の全試合出場選手“秘話”

2019年05月02日 11時00分

【ネット裏・越智正典】開幕前、私はことしも山本勉、嵯峨美樹ら記録部の労作「2019年度、セントラルリーグ記録集」を読んで春を待っていた。毎年、最初に開けるのは職業野球時代の「全試合出場選手一覧」である。

 昔、上井草球場でセネタースの外野手・尾茂田叶(松山商業、明大)の“でんぐり返しキャッチ”を見てびっくりした。地上スレスレの打球に飛び込んだ。回転レシーブなどというシャレた言葉はまだない。

 友だちと一緒に「青バス」を終点洲崎で降り、少し歩いて土橋を渡ると洲崎球場。職業野球発足1936年、なんと12月11日、王座決定戦三本勝負の3回戦で、タイガースを破って初の優勝を決めたとき、巨人ナインは肩を組んで泣いた。「日本のベーブ中島治康」も泣いた。だれひとり顔を上げなかった…。

 戦後、洲崎球場は一時、佐藤工業の資材置き場になっていたが、本塁のあたりに丸太ん棒がぶち込まれていた。丸太を削り、だれが書いたか、墨跡力強く「洲崎球場原頭」…。

 金鯱の遊撃手、1番打者、濃人渉は凄い。41年、戦時下の改名称でセネタースから翼との合併球団大洋(戦後の大洋とは別球団)、その41年、翌42年、そして43年西鉄で(西鉄ライオンズとは別球団、ファンはセーテツと呼んでいた)、3年連続全イニングに出場した。戦後、炭坑野球の日鉄二瀬の監督を務め、無名の選手を育てた。61年、中日の監督に迎えられる。権藤博を先頭に打倒巨人。東京遠征の名古屋駅で列車を待っているときには「明日は東京に出て行くからは、なにがなんでも勝たねばならぬ」。「王将」を口ずさんでいた。

 大東京、スポンサー名が球団名になったライオン軍、戦時下改称の朝日の外野手、松山商、立教大の坪内道則(改名道典)も凄い。36年秋に全試合、37年秋、38年春、秋に全イニング。戦争末期の44年に監督兼で全試合に出場。64年、中日の寮長に。

「職業野球ができたときは東京六大学が全盛で、新国劇の殺陣のような立ち回りをしないと、お客さんに来てもらえなかったんですよ」

 名古屋軍(中日)の二塁手、宇治山田商、明大、三田の簡易保険局の小阪三郎が、44年全イニングに出場しているのを見るとうれしくなる。いや、改めて敬献。50年国鉄スワローズの発足が決まると、この球団の前途を心配した日本野球連盟から、マネジャーとして派遣された。誰に対しても腰が低く、選手への配慮は細やかであった。

 後楽園球場が変則ダブルヘッダーで、巨人が第2試合の日は「王(貞治)君のキャッチボールを一緒に見ましょうや」と誘われた。

「昨日打てなかったから、今日はきっと1時間を超えますよ」

 そのとおりになる。バッティング練習をしないで1時間半も投げ続けた日もあった。

「王君はプロ野球の鑑です。目が幸福になりました…」
=敬称略=(スポーツジャーナリスト)