【ネット裏 越智正典】1月1日に正式に早大監督に就任した小宮山悟は、暮れのうちにと、尊敬する早大の先輩、1958年市岡高→早大の投手、坂本周三に挨拶に行った。第一声は「ヒゲを剃って来ました」。これだけで小宮山に大任を果たしたような、ほっと安堵が浮かんだ。

 坂本は一学年上の、早慶6連戦の捕手、大昭和製紙、監督、早大第16代監督野村徹(北野)を尊敬している。プロ野球ヤクルトの“ちいさな大打者”若松勉の北海高の教えは「山上山あり、山また山」だが、この諭しを借りていうと、尊敬の上に尊敬あり…で坂本は野村が大阪から上京するときはどんな日でも迎えに行っている。朝も野村の常宿へ。野村の下級生への慈しみが忘れられない。

 小宮山が改めて助言を頼んだ。坂本は明るい声で「ノックは自分でやれよ、たのむよ」。それから見たことがないだろうが、と明大監督島岡吉郎のノックの話をしみじみとした。

 明大63年卒、捕手、村山忠三郎(旧関東中学、千葉敬愛)はいうのだ。彼は毎年7月、南アルプスの山々が美しい長野県高森町にねむる恩師島岡の墓参りに行っている。欠かしたことがない。

「“御大”は就任したときから素人監督といわれましたが、ノックも一心不乱。外野へ打球がとどかないと、マウンドまで行って打ちました。御大がノックをすると、だれひとりエラーをしませんでした。ヘマをするとはずされる…。必死だったんです。真剣勝負だったのです」

 小宮山は野球では全国的に知られていない芝浦工大柏高から86年に入学したが、二浪だった。受験勉強中に自分で鍛え、からだ作りに励んでもこの空白は埋められそうになかった。

 監督石井連蔵(最初は第9代、このときは第14代)は、東伏見グラウンドの三塁ベンチとなりのブルペンで(いまは左翼うしろ)ピッチングを命じ、第1球を投げるとダッシュ。そのままグラウンドを一周させた。第2球も第3球も同様だった。

 4年になって第79代主将。ロッテに指名されて89年に入団。キャンプインが近づくと、壮行の先輩に抱負を語った。まず1勝を…、狙うのは新人王…でもなかった。「金田監督とケンカしに行って来ます」。伝え聞くカネやんの猛練習に負けるもんか! というのであった。

 小宮山は近々、坂本から手紙を貰うだろう。この先輩の墨跡は雄渾。が平仮名にちょいとやさしさが滲み出ている。

 封筒には「天下の小宮山悟殿」と表記されているだろう。「天下の」というのは日本一という意味ではない。優勝にこだわり過ぎると、人も、野球もちいさくなる。晴れやかに…。晴れ晴れ…。という坂本周三の願いがこめられている。

 私は、戦後、第43代主将、三塁手、54年卒、小森光生(松本市立、毎日球団他)の、一字一字心がこもった見事な墨跡を思い出している。  =敬称略=