【気になるアノ人を追跡調査!野球探偵の備忘録(62)】今年のセンバツ高校野球は23日に開幕。16日に組み合わせ抽選会が行われ、公立校は偏差値76の進学校としても知られる膳所(滋賀)など、9校が出場する。強豪私学に公立がどう立ち向かうのかも楽しみだが、1980年夏、都立高校として史上初めて甲子園に出場し、大フィーバーとなったのが国立高だった。「都立の星」として市川武史とバッテリーを組み、東大野球部でも活躍した川幡卓也が、当時の舞台裏と文武両道の秘訣を明かした。

「甲子園に出ていなかったら、東大を受けることもなかった。どちらかというとフワフワした性格なので、全く違う人生になっていたと思いますよ」

 その年の夏、国立高は身長167センチの“小さな大エース”市川の快投もあり、西東京大会を勝ち上がった。準々決勝で佼成学園を延長18回引き分け再試合の末に6―3で撃破したあたりからその快進撃は注目を集め、準決勝は堀越に2―0で快勝。決勝の駒大高戦が行われた神宮球場には5万人の大観衆が詰めかけた。0―0の緊迫した投手戦は、9回に国立高が2点を挙げて勝利。都立史上初の甲子園出場という快挙に地元は沸いた。

「西東京決勝の日は電車で千駄ケ谷の駅に集合したんですが、帰りはマイクロバスを手配してくれて国立駅まで送ってもらいました。駅から学校までは歩いて15分くらいなんですが、大きい道路が封鎖されてて、沿道が人で埋め尽くされていた。もうパレードですよ」

 フィーバーは甲子園でも続く。初戦で名門・箕島(和歌山)に敗れたものの、注目度では前年春夏連覇の相手校をも凌駕した。ただ、話題になったのは野球そのものではなかったようで…。

「進学校ということで、マスコミの方々も野球のことなんかほとんど聞いてくれない。『普段はどれくらい勉強しているの?』『進学は国立大?』『じゃあ東大とか?』と聞かれて『行けたらいいですね』と答えたら“東大志望!”とか書かれちゃって(笑い)。『国立高校の宿舎では夜遅くまで明かりがともっていて、つかの間の休息も勉学に励んでいるようだ』なんて臆測で書いた記事もあったけど、誰一人勉強なんかしてないですよ」

 報道陣の取材により「東大志望」とされてしまった川幡だが、これが現実となる。1年の浪人生活を経て、バッテリーを組んだ市川とともに赤門をくぐる。結局、当時3年生だったメンバーのうち4人が東大に進学した。

「もともと東大に行こうという気持ちはなくて、1年目は共通一次も1000点満点で620点くらい。ただ、やりきったつもりの野球が、不思議とまたやりたくなってくるものなんですよね。次は神宮でやりたいけど、六大学でレギュラーは取れない。でも東大だったら頑張れば何とかなるんじゃないかと。野球をやるためだけに東大に行ったら、留年してしまいましたが…」

 卒業後は大手広告代理店に入社。注目を浴びた学生時代から40年近くたった今も、取引先と当時の会話に花が咲くという。

「東大に落ちたときも記事になったし、受かったときは(新聞の)1面にもなったんですよ。恥ずかしい? いや、僕は嫌いじゃないですね」
 元祖“都立の星”は、そう言ってはにかんだ。=敬称略=

【都立の星】都心に近く、地価の関係などで「グラウンドがない」「あっても狭すぎる」という問題を多く抱える都立校は、他県の高校に出向いて合同練習や練習試合をさせてもらうなど、練習時間と場所の確保に頭を悩ませており、なおさら甲子園出場が困難とされている。国立高以後、甲子園に出場した都立校は1999年夏、2001年夏の城東、03年夏の雪谷、14年春(21世紀枠)の小山台の5例4校のみ。いずれも初戦で敗退しており、都立校にとっては「甲子園での都立1勝」が悲願となっている。一般的に都立で甲子園出場も狙えるほどの強豪校は「都立の雄」と呼ばれ、甲子園に出場を決めると「都立の星」と呼ばれる。

【公立と私立】今年のセンバツは第90回の記念大会のため、例年より4校多い36校により紫紺の大旗が争われる。その36校のうち、公立校は9校。「公立が選ばれやすい」という傾向のある21世紀枠は3つともすべて公立だったため、実質の公立―私立のバランスはいよいよ私立が強いものとなっている。もともと施設などの練習環境から、選手集めに至るまで、強豪私学は公立にとっての大きな壁となっており、そんな“判官びいき”の感情もあってか、以前から甲子園では公立を応援する高校野球ファンも多い。

☆かわはた・たくや=1963年3月5日生まれ。東京都八王子市出身。由井中1年時に同校の軟式野球部で捕手として野球を始める。国立高では3年夏に甲子園出場。卒業後、1年の浪人を経て東大理科二類に合格。東大野球部では選手のほか助監督も務めた。1987年、電通に入社。新聞局、営業局、人事局、中部メディア局などを歴任する。186センチ、82キロ。右投げ右打ち。