62年巨人宮﨑キャンプで“大記録”を樹立した柴田

2018年03月01日 11時00分

法政二高から巨人入りした柴田勲(1962年2月、宮崎)

【越智正典 ネット裏】もう、キャンプ打ち上げである。巨人が宮崎に陣取ったのは王貞治入団第一年の1959年からであるが、ことしは宮崎キャンプ60周年であった。

 当時、巨人キャンプの球場はいまの宮崎県総合運動公園ではなく、国鉄宮崎駅の三角屋根のちいさな駅舎を出て歩いてすぐの宮崎市営球場であった。となりの陸上競技場のすぐそばを日豊線が走っていた。休日の前日は練習が終わってから森昌彦(現祇晶)や高田繁…が400メートルトラック10周を走っていた。

 球場入口を入ると、綿アメやお祭りのお面を売っている屋台が並び縁日のようで楽しく通ると、そこがブルペンで、早実の王や、のちのプロレスの馬場正平投手がピッチング練習をしていた。お客さんは大喜びだった。

 65年入団の二塁手土井正三は毎年、キャンプ最初の休みの日には、当時の一軍宿舎江南荘を出て橘橋を渡り、街にうぐいす餠を買いに行った。うれしそうに「春ですねえー」。

 60年夏、61年春、甲子園大会優勝投手、のちの“赤い手袋”法政二高の柴田勲が宮崎にやって来たのは巨人宮崎キャンプ4年目の62年春である。作新学院が春夏連覇する年である。村田英雄の「王将」がヒットしていた年である。

 柴田はこの年からずぅーと、巨人キャンプの大記録を樹立している。監督川上哲治はキャンプ中に、夜、野球規則試験を実施したが、柴田はダントツ1位どころか、毎年100点満点。“参謀”牧野茂も唸った。柴田は野球規則全条文を暗記していたのだ。

 65年、国鉄スワローズから移籍の金田正一は「湯之元(鹿児島県、国鉄のキャンプ地)は山あり谷あり坂道あり、だったが、宮崎は平ら。わし、大丈夫かな」。

 監督川上哲治は次の練習課目のため選手が目の前を通ると、やさしい口調で「目的を持って歩こうよ」。

 その川上は凄かった。67年、6年ぶりにベロビーチ行きを実施しようとしたが、ドジャースの返事はノー。ベロビーチ市の建設委員会がドジャータウンの宿舎などの老朽化がひどく、建て替えを命じていて許可が出ないのだという。川上は再度申し込んだ。「野宿でいい」。ベロビーチ市もドジャースも川上の情熱に心打たれて、特例で認めた。

 81年、80年に現役を引退し、助監督であった王貞治はプールサイドでのサヨナラパーティーの晩、アメリカの若い選手に囲まれた。バッティングを教えて下さい。王はまんまるいお月さんを見上げて「月もボールさ」。

 95年、早大から入団した投手織田淳哉は夜、実戦想定のミーティングでコーチに、巨人1対0。が、9回二死満塁のピンチになった。3ボール、2ストライクから“何を投げるかッ”と問われると、答えた。

「ハイ、肝っ玉です」 =敬称略=(スポーツジャーナリスト)