三塁ゴロでバッタが飛んだ駒沢球場

2017年10月22日 11時00分

1962年、阪神を破り日本一になった東映。MVPに選ばれたのは土橋正幸

【越智正典「ネット裏」】東京のロストボールパークの話の続きである。上井草球場は有馬記念に名を残す、野球では決して表に出なかった殿様、有馬頼寧がオーナーの東京セネタースのホームグラウンドであった。

 西武鉄道が参加し、西武新宿線上井草駅から200メートル。はじめ「東京球場」と呼ばれたが、職業野球連盟が出来てから、いちばんはやく、1936年8月に落成した。洲崎球場より2か月はやい。

 花形選手は名二塁手、オシャレな苅田久徳。が、こどもには遠くて行けなかった。翌37年に見に行くと、センター尾茂田叶(松山商、明治大)が地上スレスレの打球に飛び込んで取ったのにびっくりした。「でんぐり返しキャッチだあー」。周囲の松林がキレイであった。

 53年9月27日開場の駒沢球場は、たのしいパークであった。三塁ゴロが飛ぶとバッタが驚いて飛んで行った。もっと驚いた遠征チームの三塁手がバッタにグラブを出した。

 駒沢球場は少年たちにはうれしい球場であった。彼らは東急が駅から出した送迎バスに乗らないで歩いて行った。冒険旅行である。試合が終わり、帰りにはすぐそばの合宿所前でうっとりした。西洋館とテラスがおとぎの国のように思えた。

 駒沢球場は東急の離れ業で世田谷区深沢1丁目に造られた球場である。戦後、本拠地制がちゃんとしていなかったため、交通至便の後楽園が主催超過密。52年は巨人、大映、毎日、国鉄。お客さんの入りの実績で決まる。東急は阪急近鉄戦計3試合しか主催できなかった。困った。総帥五島慶太の出身地長野県ばかりに試合を持っていけない。そこで、東京都駒沢総合運動場の一角に球場を造り、施設のすべてを都に寄付すると出願し許可されたのだ。

 すぐそばの国税局の官舎に住んでいた世田谷税務署員、池田宗昭は、近所付き合いは大切、一度は行かなきゃと照子夫人と行ってみるとお客さんは28人。次の休日に行くと11人。びっくりして54年の年間席を買い、スタンドで頑張っていこうと叫び続け、応援団長に推される。

 61年、パで2位を固め、62年優勝確実と思われた監督、水原茂、土橋正幸、尾崎行雄、久保田治、安藤元博、安藤順三、種茂雅之、張本勲、毒島章一、吉田勝豊、山本八郎、青野修三、岩下光一…ら東映ナインに、62年の開幕球場がなかった。64年の東京五輪が近づき駒沢を返還しなければならなかった。この窮状を見て、どうぞ神宮球場をお使い下さい…と救いの手をさしのべたのは、神宮外苑苑長伊丹安広(早大捕手、34年日米野球審判長、戦時下早大監督、78年殿堂入り)である。

 62年4月7日の朝、東映毎日の神宮球場の空に、いまも鈴木幸市ら門下生に慕われている伊丹の心尽くしのアドバルーンがあがっていた。祝開幕。東映はこの年リーグ優勝を果たし、日本選手権では阪神タイガースに勝って、知ってのとおり日本一になった。