長嶋の天覧試合バットと王の深夜の足音

2017年10月15日 11時00分

天覧試合も行われた後楽園球場(写真は1964年3月)

【越智正典「ネット裏」】野球殿堂博物館が「プロ野球・東京のロストボールパーク」展を開いている。後楽園球場の展示では長嶋茂雄の天覧ホームランのバットが26年ぶりに公開されている。

 1959年6月25日、巨人―阪神の朝、後楽園球場では球場支配人吉井滋の総指揮で昭和天皇、香淳皇后両陛下がお通りになる正面入り口から2階貴賓室への廊下階段をピカピカに磨いていた。すぐに宮内庁の検分。「滑り過ぎる。危険である」。吉井が叫んだ。「誰か倉庫に行ってロジンを持って来てくれ」。投手がマウンドでボールの滑りを止める、あのロジンを撒いた。吉井は学習院高等科(学習院大)の主将捕手。とっさの機転で検分をパスした。

 やがて巨人が練習開始。私は3日前に遠征から帰って来た長嶋を世田谷区野沢の下宿に訪ねていた。長嶋は押し入れに首を突っ込み、晴れ舞台に握りしめて行くバットを探していた。当時西鉄の中西太も毎日の山内一弘も気に入ったバットを見つけると、買い求め、家にしまっておいて、ここというときに持って来て打った。…「あったあ」。見ると海兵隊帰りの怪力打者、パイレーツのラルフ・カイナーモデルである。長嶋が好きな細身のバットではない。が、このバットで上からカチンと叩く作戦なのだと思った。巨人ベンチのバット立てに、このバットが納まっているのを見てから私は打ち合わせに向かった。

 それから32年。前回公開の91年夏、見に行った私はショーケースをのぞいて呆然とした。カイナーモデルのバットではない。デトロイト・タイガースのアル・ケーラインモデルが飾られていた。少し長いが長嶋好みの細身である。長嶋はもう一本、このバットを持って来てロッカーに用意していたのだった。

 後楽園球場は同地にあった砲兵工廠が小倉に移転したことから土地の払い下げを受け、37年9月11日に開場。終戦直後は旧日本軍の兵器の集積場にもなった。のちに外務大臣や大蔵大臣を歴任する愛知揆一らの尽力で接収解除。その後、占領軍内の奪い合いから何度も接収されたが、やがて平和な球場になった。戦時下の“戦意高揚”大会の開催を思っても波瀾万丈球場とも言える。

 私には、王貞治の深夜の足音が忘れられない。王は後楽園球場で413本の本塁打を放っている(長嶋232本)が、ハンク・アーロンの755本を抜き、756号の世界記録を樹立したその時代から、試合が終わってからマッサージを受ける時間を若い選手たちに譲って一番後にしていた。自分の治療は時間がかかる。待たせてはいけないというのだった。

 試合が終わり、記者席の灯も消えた頃、1階一塁側の小さな記者席にいると、コツコツと足音が聞こえた。王は帰宅を急ぐことなく、その日の試合をかみしめるようにゆっくり正面入り口のくぐり戸に向かっていた。いつも午前0時を過ぎていた。 =敬称略=(スポーツジャーナリスト)