こうして始まった巨人の宮崎キャンプ

2017年03月02日 11時00分

宮崎キャンプでノックを受ける長嶋茂雄(1962年2月)

【越智正典「ネット裏」】長嶋茂雄が巨人入団を決め契約したのは1957年12月7日である。

 

「球団社長品川主計さんに“長嶋君、何をボヤボヤしているんだ。はやく入団し給え!”と叱られちゃったんです」と笑った。

 

 巨人は54年明石キャンプさなかに、セの発展のため、近々の監督含みで名三塁手宇野光雄を国鉄に譲渡した。巨人の三塁の守りにポッカリ穴があいた。柏枝文治では埋められなかった。監督水原茂は外野手岩本尭を持って来たがムリだった…。長嶋入団に巨人ファンも沸いた。石原裕次郎が歌った。<背番号3、いかすじゃないか、シゲよ、頑張れ…>

 

 キャンプを打ち上げた巨人のオープン戦第1戦は高知で対阪急。朝7時には3000人のファンが開門を待っていた。長嶋は左腕梶本隆夫から左前安打を放ったが阪急の三塁手、増田浩が“ゴールデンボーイ”長嶋茂雄を活写した。

 

「攻守交代で三塁にやってくる長嶋のスパイクが砂を噛んでキュッ、キュッと鳴りました」。本塁打王、打点王、新人王。秋、巨人はセで優勝し日本選手権で、56年57年と連敗の西鉄と対戦。第1戦から3連勝。西鉄の監督三原脩が「まだ首の皮一枚残っている」と、評論家第1年の南村不可止に名セリフを吐いたのはこのときである。第4戦の朝、福岡には夜中に降り出した雨が残っていた。コミッショナーは筑豊からやってくるファンに配慮して雨天中止。勝負のアヤはわからない。西鉄はそれから4連勝。後楽園球場での第7戦で中西太が右中間上段に逆転日本一弾。西鉄の東京遠征の宿大国屋旅館で祝宴の準備が整おうとしていた頃、大打者川上哲治が引退を表明。敗れて去る。いかにも覚悟の“武人”らしかった。正力松太郎から指令が飛んだ。“来季は暖かいところへ行き、更なる猛練習をせよ”。

 

 その秋、近鉄が巨人の“猛牛”千葉茂を監督に迎え、「パールス」を千葉の愛称にちなんで「バファロー」に(のちに「バファローズ」)。近鉄はそれまでずっと宮崎でキャンプ。宿舎は大淀川川畔の魚安旅館。が、チーム一新のこの機に59年のキャンプを愛媛県今治に移すことになった。近鉄のオーナー佐伯勇は、となりの周桑郡丹原町(現西条市)の出身である。地元の要望だったのか。が、千葉の苦しみが始まる。町はキャンプの2月はしんしんと冷える。北は瀬戸内海、風を遮れない。暖かい宮崎が空いた。巨人の天運だったのか。こうして宮崎は川上巨人軍V9のふるさとにもなって行く。ONへの、沢村栄治の捕手内堀保の近距離直撃ノックは宮崎キャンプの華になった。「さあー、来い!」「もう一丁!」。ONの叫びは、勝利へのバラードであった。

 

 休日前日の練習最後の「4000メートル走」も目に焼きついている。となりの陸上競技場のトラックを10周するのであるが俊足ではなかった森祇晶、王貞治が力走完走したのであった。=敬称略=(スポーツジャーナリスト)