異業種で輝く元プロ野球選手

【川口知哉(元オリックス投手)】瀬戸内海東部に浮かぶ淡路島。人口13万人強が暮らすのどかな島で、女子プロ野球チーム「兵庫ディオーネ」のヘッドコーチとして奮闘しているのが川口知哉さんである。

「プロを辞めてもう12年? 早いですね。当時、マスコミには『ビッグマウス』と書き立てられましたけど、今もそれは…変わっていませんよ」

 苦笑いを浮かべ懐かしそうに当時を振り返る。

 今から20年前の1997年。甲子園で大活躍した川口さんは4球団競合の末、ドラフト1位でオリックス入り。プロ入り前から歯に衣を着せぬ強気発言を連発したことで「ビッグマウス」と注目を集めた。

 ところが、プロ入り後は左肩痛や制球難に悩まされ低迷。実力を発揮できないまま2004年、戦力外を通告された。

「高校時代は誰にも負けないぐらい練習をしていました。だから強気で負ける気がしなかった。でも、プロはすごい人たちの集まり。自分自身、肩の故障もあって気持ちを追い込むこともできなくなってしまいました。それに、僕の場合、指導していただくコーチが毎年のように代わり、それぞれの指導に従ううちに、フォームがおかしくなってしまって。自分の気持ちを強く持ち続けていればもう少しやれたかもしれないですね」

 辛酸をなめ続けたプロ生活。「一度野球から離れたい」と、第2の人生は父親の職業だった外装業の職人を志した。住宅のフェンス作りやカーポート建設など、自らの力で切り開く職人業に魅力を感じ、一時は人生をささげるつもりだった。

「プロでプライドもズタズタにされましたし、長男も生まれた直後で。家族を養っていかないといけない気持ちも強かった」

 そんな川口さんに指導者の依頼が舞い込んだのは09年のこと。職人をしながら地元・京都で中学の野球リーグの手伝いをしている際、新しく誕生する女子プロ野球リーグから声がかかった。

「最初は戸惑いましたよ。いきなりコーチ、しかも女子で、まだリーグも立ち上がっていないころですから。でも、一度大会を見に行ったら予想以上にみんなうまくて。それに、自分自身、いろいろな指導者から教えてもらったおかげで、教える“引き出し”は数多く持っていましたから。すぐに選手の欠点や修正点がわかる。それを生かせるかなと」

 自らプロで指導者に悩まされた分、人一倍の愛情を注ぎながら丁寧な指導を心がけた。リーグ開幕当初はバスターやエンドランを知らない選手もいて困惑した。それでも、地道な指導を続けレベルは急上昇。今では世界と対等に戦える女子野球選手を輩出し続ける。

 15年からはコーチ業の傍ら、リーグ全体の普及活動や協賛企業を募る球団職員として奔走する川口さん。今後の目標を聞くと、力強い口調でこう語った。

「まずは女子プロ野球をもっと普及させたいので、各都道府県に女子硬式野球部ができるような働きかけをしていきたい。その上で、このリーグを超一流の集まりにしたい。そうじゃないとファンも興味を持たないので。今のプロ野球なら日本ハムの大谷(翔平)のような規格外の選手。そういう選手を一人でも多く育て、女子リーグを活性化したいですね」

 ☆かわぐち・ともや 1979年、京都府生まれ。平安高(現龍谷大付属平安高)から97年のドラフト1位でオリックス入団。99年に一軍初登板。2004年に現役引退後、外装業などを経て10年から女子プロ野球・京都アストドリームスの投手コーチに就任。13年からサウス・ディオーネで指導。15年リーグヘッドコーチ、16年兵庫ディオーネのコーチとなり現在に至る。プロ通算成績は9試合で0勝1敗、防御率3・75。左投げ左打ち。