元祖・プロ野球のレジェンド西村幸生

2016年11月20日 16時30分

三重・伊勢市の倉田山公園野球場に鎮座する西村幸生氏(左)と沢村栄治氏の胸像

【越智正典「ネット裏」】ことし阪神はCSにも進めなかったが、宇治山田(三重県伊勢市)出身の、国鉄スワローズのマネジャー小阪三郎(故)は会うと阪神の西村幸生(山田中、愛知電鉄、関西大、1937年阪神、最優秀防御率・37年秋、38年春、最多勝・37年秋、77年殿堂入り)の話をしていた。

 

 小阪は職業野球誕生時の名古屋軍の二塁手。戦時下人手不足と世話好きだったことから兼マネジャー。終戦後は日本職業野球連盟にいたが、50年に国鉄スワローズが誕生すると指導役で派遣されていた。お世話になった。

 

「プロ野球は宇治山田で始まっているんですよ。西村幸さんは厚生小学校。沢村の栄ちゃんは幸さんより7ツ下ですが、明倫小学校(栄治、巨人)。2人がいなかったら阪神巨人戦もプロ野球も成り立ちませんでしたよ」

 

 35年結団時のタイガースの主将松木謙治郎も、イッパイやると必ずオハコを始めた。

 

「西村は実業団から関大に招かれたのですが、32年に関大が東京に遠征して来たときは凄かったですよ。慶応とは1勝1敗でしたが、全盛期の東京六大学の早稲田、明治、法政、立教を連破。撫で斬りにして関大が日本一なのを満天下に知らせました」

 

「西村はタイガースでは“酒仙投手”ともいわれましたが、遠征の宿では絶対に呑みませんでした。巨人に勝って賞金が20円出たときは小料理屋へ。賞金がすくないときは宿の近くの屋台でやっていましたよ」

 

「凄かったのは入団1年目の37年と、次の年の38年の日本一王座決定戦です。巨人を全く寄せ付けませんでした。心を打たれたのは、ランナーが出て一塁からマウンドへ間を取りに行くと“まかせて下さい。これからがわたしの仕事が始まるんですよ”と、言いましてね。この気概がタイガースを2年連続日本一にしたんです。ホントの大投手でした」

 

 ことしの秋のはじめ、私は東京ドームのなかの野球博物館で幸運に出会った。36年、関大がハワイへ遠征したときの主将西村幸生のサインボールが展示されていた。小阪も松木も天国で喜んでいるだろう。おおげさに飾り立てられていないのがよかった。西村の見事な筆致の英文が添えられていた。このボールは当時、バットボーイを務めたサミュエル・コイデさんの親族から80年を経て、大投手の長女、ジョイス津野田幸子さん(聖徳大教授、元ハワイ大学コミュニティーカレッジ総長)にとどけられ、幸子さんから6月16日、野球博物館に寄贈されました…と、丁寧な説明が付いていた。西村幸生投手は職業野球が年1季制になった39年の活躍を最後に、職業野球3年で“出征”。45年戦没された…。11月19日は阪神のファン感謝デーである。甲子園球場のスタンドを埋めるファンの願いは、タイガースに大投手出でよ、であろう。=敬称略=(スポーツジャーナリスト)