村田「横浜と決別」の裏に“生卵事件”

2011年12月15日 15時00分

 横浜からFA宣言していた村田修一内野手(30)が13日、都内のホテルで巨人と2年総額6億円(推定)で正式契約を結んだ。村田は原監督が同席した会見で新天地での活躍を誓ったが、9年間プレーした横浜を出るのは苦渋の選択だった。それでも最後に移籍を決断した裏には、横浜のラストゲームで起こった衝撃的な事件があった――。

 横浜で本拠地最終戦が行われた10月18日は村田にとって生涯忘れられない日となった。試合は3―3の延長引き分け。中日の優勝が決まり、村田の目の前で落合監督が宙に舞った。

 一方、横浜は4年連続の最下位。この日の巨人入団会見で移籍を決断したタイミングを聞かれると、村田は「ウチのグラウンドで中日が胴上げして…。あの輪にやっぱり入りたいというのは強くあった」と素直な気持ちを口にした。

 強豪チームへのあこがれが抑えきれないほどになっていたのは確かだ。だが横浜を離れがたい気持ちも、同じくらい持っていた。それを一瞬でかき消したのが、試合後に起きたショッキングな事件だった。

 その日の試合には、絵美夫人と2人の息子が観戦に訪れていた。村田は試合が終わると、愛車に家族3人を乗せて球場を出ようとした。すると駐車場出口に待ち構えていたファンが思わぬ行動に出た。クルマのフロントガラスに向け、思い切り生卵を投げつけたのだ。

 横浜の“顔”だった村田には、これまでも聞くに堪えないヤジが浴びせられてきた。村田はそのつど「一部の心ない人がやっていることですから」と取り合わなかった。球界では1996年にダイエー・王監督(当時)が、同じくファンから生卵を投げつけられて大きな物議を醸したことがある。だが今回はある意味、ダイエーの事件以上にショッキング。家族まで危険にさらすような行為を、さすがの村田も許せなかった。

 それでもその場では感情をぐっとこらえ、生卵で汚れた車で帰路についた。だがその後、親しい関係者には「あれは人の道としてどうなのか。横浜で9年間必死にやってきて、こんな仕打ちを受けるなんて、正直ショックだよ」と怒りをぶちまけた。それから間もなく、周囲に横浜を出る決意を伝えた。

“生卵事件”のテン末を聞いて心を痛めたのは、村田がフロントの中で唯一信頼を寄せていた加地会長(当時は社長)も同じだった。同会長は事件について村田に謝罪。だが身売り問題で身動きが取れず、主砲を引き留めることはできずにいた。

「今夜は社長ではなく、“人間・加地隆雄”として村田君と話をしたい」。11月4日に設けた会食の席で、加地会長は村田にそう切り出した。

 FA宣言の意思が固いのは分かっていた。「FA権を取ったというのは、企業が一部上場の機会を得たのと同じ。上場してみて自分にどれだけ“投資”が集まるか。晴れ舞台に上がってみろよ」。人生の先輩として背中を押したという。

 村田としても“事件”の悪い後味が残ったまま、愛着ある球団を去るのは避けたかった。「加地さんは横浜フロントの中でも特別な人。あのときじっくり話せたのは、自分にとって良かった」。晴れて巨人に身を移したこの日、村田はすっきりした顔で振り返った。

 古巣となった横浜に向けて「強くなってもらいたい」と語った村田。“生卵事件”を乗り越えた心からのエールだった。

【球界の生卵事件】1996年5月9日、大阪市・日生球場で行われた近鉄VSダイエー戦後に起こった。9勝22敗で最下位に沈んでいたチームに怒りを募らせた熱狂的な鷹党が試合後に、王監督以下選手らが乗る移動バスを取り囲んで生卵をフロントガラスにぶつけ、一部は選手にも直撃した。生卵事件の2日前にも発炎筒が投げ込まれるなどの騒動があり、近鉄側も安全対策を練っていたが、新たに設定した脱出ルートを一部メディアが地図付きで掲載。火に油を注ぐ結果となった。