【元番記者が明かす 鯉の裏話】1996年、最大11.5ゲーム差をひっくり返され、巨人に「メークドラマ」を許してしまった三村敏之監督の無念。今回の優勝ではそれも…。歓喜の胴上げの輪の中にあった78番。前田健太(ドジャース)が抜けた投手陣をうまくやりくりした畝龍実投手コーチ(52)の背番号だが、それは2009年に亡くなった三村さんの広島監督時代の背番号でもある。

 三村カープでの畝コーチはチーム付きスコアラー。三村さんを師と仰ぎ、公私にわたって多くの時間、行動をともにした。だからこそ、96年はつらかったし、悔しかった。そんな気持ちもまた20年の時を経てついに…。

 13年オフ、スコアラーから投手コーチへの転身が決まった畝コーチは球団から「背番号は何番が欲しいか」と聞かれ「僕の場合は78番しかないです」と答えた。三村さんへの思いを胸に戦うためだった。三村さんの教えは頭の中に叩き込まれている。選手へのアドバイスも「こんな時、ミムさんならどうするだろうか」と心の中で自問自答しながら…。節目には必ず広島市内にある三村さんのお墓に行き、手を合わせた。今年は開幕前も、前半戦終了時も、ロード中に優勝マジックを点灯させ、広島に戻った8月29日にも行ってきたそうだ。

 記者は当時の三村監督が「僕はフィールドマネジャー。畑を耕して、種をまいて、育てていく。そういう仕事よね。それが大きな実になるのを夢見ながらね」と話しておられたのを思い出す。緒方監督は三村さんの現役時代の背番号「9」を受け継いだ愛弟子だし、水本二軍監督も三村イズムの継承者だ。三村さんが育てた面々が育てる側になって成し遂げた優勝。そして、光り輝いた背番号78。三村さんの笑顔が目に浮かぶ。

(1994~96年担当・山口記者)