【大下剛史の熱血球論】黒田で真っ先に思い出すのが、入団時に担当の苑田聡彦スカウト(現スカウト統括部長)が話していた言葉だ。「すぐに使えるのは沢崎、将来的には黒田」。実際に同期のドラフト1位・沢崎俊和(現二軍投手コーチ)は1年目に12勝8敗で新人王に輝いたのに対し、黒田は12勝を挙げるのに3年を擁した。

 私がヘッドコーチとして接したのは、入団3年目の1999年だった。それまでの2年間で黒田は7勝13敗と伸び悩んでいたが、実際にキャンプ―オープン戦と見て、苑田が「将来的には黒田」と言っていた意味が分かった。投手としての素材の良さはもちろん、エースに欠かせない向こう気の強さを感じたからだ。

 球団創設50周年でもあった99年の開幕はナゴヤドームでの中日戦で3連戦の先発はミンチー、菊地原、レイノソ。私の提案で黒田は阪神との本拠地開幕戦に回した。スタッフ会議では「黒田は中日戦のほうが…」の意見も出たが、私は「黒田はウチの将来のエース。やってもらわんといけん投手じゃけ」と反対意見を押し切った。

 結果的に中日には3連敗を喫した。しかし、黒田は旧広島市民球場で期待以上の好投を披露し、チームにシーズン初勝利をもたらした。エースとしての第一歩は、あの阪神戦だったのではないかと今でも思っている。

 黒田は多くの監督、さまざまな環境下でプレーする中で勉強を重ね、着実に成長していった。メジャーでも必要とあれば同僚に変化球の握り方を教わったとも聞く。家族とも離れ離れの生活で、体力的、精神的にもきついかもしれないが、広島だけでなく他球団の若手にもまだまだ経験や生きざまを背中で見せ続けてほしい。

 今回の偉業達成は、南海でお世話になった鶴岡一人監督の隣のお墓で眠る父の一博さんも喜んでいることだろう。クロ、よう頑張った、おめでとう。 (本紙専属評論家)