【岩村明憲 ガンガンいこう!(18)】2003年後半の開幕戦、起用をめぐって僕と若松監督はもめていました。
理由は二塁コンバートを伝えられていたところ、急きょ外野を命じられたことにありました。
ただ僕がやみくもに反発したかといえば、そうではありません。外野守備に不安を抱えていたことが根底にありました。
若松監督就任1年目の1999年のオープン戦、西武ドームで行われた試合でした。僕が左翼を命じられて守った試合があったんですが“バンザイ”してしまったんですね。ボールが天井と重なり、完全に見失ってしまった。落球の様子を見て、若松監督はそれ以降、僕に外野を命じることはありませんでした。
その経緯もあったので僕は外野守備を命じられ、最初は難色を示しました。とはいえ、復帰戦を目前にしてこれ以上、もめたくはない。“分かりました”と収め、試合が行われる札幌に飛びました。
いざ行われた中日との試合では助っ人のトッド・ベッツの代走での復帰となり、守備は三塁を守ることになりました。
打っても2打席目の適時打が決勝点となり、お立ち台に上がるなど最高の復帰戦となりました。リハビリ生活がつらく、苦しいものだっただけに、ファンの方の声援が特に温かく感じたことを覚えています。
しかし喜んでいたのもつかの間、ショックだったのが次の日の若松監督のコメントでした。
「打ったら使うしかないだろ!」
若松監督独特の言い方は理解していたつもりでしたが、復帰直後だけにあのころはナーバスになっていましたね。
そもそも若松監督のイメージといえば「温厚そう」というのが一般的とは思いますが、僕には厳しい印象が残っています。
打撃練習ではひたすら「セカンドとショートの頭をライナーで越すような打球を打ちなさい」と言われました。僕が気持ち良く本塁打を練習で打っても「ダメだ、それじゃ」。本来、中距離バッターであった僕がフォームを崩さないようにと目を配ってくれていたのですが、内心ではへこむこともありました。
まともに話せるようになったのは、本塁打30本を記録したあたりからでしょうか。それまでは試合で本塁打を打って目は合っても笑ってくれませんでしたが、30本を打った時に初めて笑顔を見せてくれました。
若松監督の頭の中には、それだけ打ったら、ホームランバッターとして認めてやろうというのはあったかもしれません。悩んだ日々もあっただけに、その時はとにかくうれしかったことを覚えています。
厳しさもありましたが入団後、高校生内野手として右も左もわからない中、守備に目をつぶって、粘り強く起用してくれたのは若松監督です。僕が独り立ちできたのも監督のおかげだと今でも感謝しています。
【岩村明憲・連載18】独り立ちできたのは若松監督のおかげ
コメント