【気になるあの人を追跡調査!野球探偵の備忘録(6)】2012年夏の岩手県大会決勝で、現日本ハムの大谷翔平から特大の3ランを放ち、二刀流右腕の夢を打ち砕いた男がいる。“宿敵”と称された二橋大地内野手(21)は今、東日本国際大の4番に座る。あの夏への思い、さらに将来の目標について熱く語った。

「打った瞬間に『行ったな』と思いました。僕自身、弾道は見てなかったので、審判が手を振ったときは素直にうれしかった。『3点入った。チームが勢いづくぞ』って」

 12年夏の岩手県大会決勝で二橋が大谷から放った左翼ポール際への一発は一部から「ファウルだったのでは?」との声が上がり“疑惑の3ラン”とも言われた。むしろ、それをポジティブに捉える。

「今あれだけ活躍してる人から打てて、自信になりました。疑惑つきっていうのもあって世間の注目浴びて、いろんな人から気にかけてもらえる。どこに行っても『あのときの子か~』って名前覚えてもらえますね」

 こんな後日談もある。「2年後に後輩の試合を見に行ったとき、チームメートが当時の審判から『あれはポールに当たっていた』って話を聞いたらしいんです。結局どっちなんだよって。まあどっちでもいいですけど」

 盛岡大付と花巻東という県内で双璧をなす強豪校にいながら、大谷との対戦は一度きり。「試合は何度もしたんですが、お互いにエースを出さないってのがあって。ライバル校同士で意識していたし、ほとんど話したこともない。でも対策はめちゃめちゃやってましたよ」。最速160キロが限界のマシンに「大谷」と書いた紙を貼りつけ、ひたすら打ちまくったという。「それで初対戦が最後の大会の決勝。ラスボスみたいな感じでしたね(笑い)」。最後の夏が終わり「ナイスバッティング」「花巻東の分も頑張るよ」と声を掛け合ったのが唯一交わした言葉だ。

 甲子園出場は果たしたものの、結果は初戦敗退だった。閉会式では奥島孝康高野連会長(当時)が「とりわけ残念なのは花巻東の大谷投手をこの甲子園で見られなかったこと」と発言し、物議を醸した。「『やっぱりそうか』って思いました。自分たちも1回戦で負けちゃって、結果も残せなかったし。でも後輩たちは悔しがって、奮起してくれたみたいですね」。翌年の選抜大会では悲願の初戦突破、春夏通算9回連続初戦敗退という不名誉な記録にピリオドを打った。

 福島・いわき市の東日本国際大に進んでからも“最後の夏”は特別な記憶だ。「夏の大会のDVDは今でもよく見ます。当時は打てなかったときがなかったんで、バッティングの調子が落ちてくるたびに見ています。もう20回くらいは見たかな」。大谷の登板日とあの夏が焼きついたDVDがモチベーションを上げる2大アイテムだという。

 将来はプロ野球を視野に入れつつ、卒業後は社会人野球の道を目指す。「今のリーグ自体が地味で、もっと全国の舞台で活躍しないとプロの方の目にも留まらないと思うんです。高校、大学と東北でやってきたので、今度は地元神奈川の社会人チームに行きたい」

 現実的な未来像を描く二橋だが、大谷のことになると途端に目を輝かせ、熱い言葉が口をつく。「プロの舞台で大谷からホームランを打つのが夢なんです。今度はポール際じゃなく、バックスクリーンに。早くしないと大谷がメジャーに行ってしまう。もしそうなったら米国まで追っかけに行きます」

“疑惑の3ラン”は、今も二橋の原動力だ。

 ☆にはし・だいち 1994年4月14日生まれ。神奈川県大和市出身。文ヶ岡小1年時に「桜森ベアーズ」で軟式野球を始める。光丘中時代には硬式の「瀬谷ボーイズ」に所属。盛岡大付に進学すると1年秋からベンチ入りした。3年夏には岩手県大会決勝で花巻東と対戦。大谷から3ランを放って甲子園出場を決める。高校卒業後は東日本国際大に進み、1年秋からベンチ入り。現在は4番と副主将を任される。高校通算39本塁打。176センチ、85キロ。右投げ右打ち。ポジションは三塁。