練習の鬼・国松彰の原点

2016年01月17日 16時00分

練習の鬼・国松のバッティング(1962年、対広島戦)

【越智正典「ネット裏」】1961年に監督に就任した川上哲治が猛練習を貫き、前人未踏のV9を果たすのは、65年が第一年であったが、それまで、62年と64年にはペナントレースで勝てなかった。両年とも監督藤本定義の阪神がセで優勝した。巨人は62年は、阪神、大洋、中日の次の4位で、秋に東京五輪が開かれた64年は、阪神、大洋、巨人で3位だったが首位阪神になんと11ゲームの大差をつけられた。ペナントレースが終わると、外野手国松彰(亀屋万年堂会長)がポツンと言った。

 

「勝てないのは弱いからです。弱いということは下手だということです。下手だということはもっと、もっと、練習をしないといけないということです」

 

 国松のこの想いは純で立派だったが、選手にこうも思わせた監督川上の教育は見事だった。のちに川上は二軍監督を務めた国松を将来巨人軍監督にと、考えていた。

 

 同志社大の左腕投手国松が巨人軍に入団したのは55年であるが、すぐにその春の中南米六か国遠征のメンバーに抜擢された。講和条約から2年4か月が経っていたが、当時、パスポートは彼の場合なら京都府警に申請しなければ交付されなかった。球団が手続きを進めてくれるわけではない。出発前の東大球場での練習の間をぬって夜行列車で京都に戻り、府警に出頭して10本の指の指紋を取られ、やっと貰えた。

 

 キューバでは、のちに阪急にやってくるバルボンが、まだ補欠だった「シュガーキング」戦に登板。コロンビアでは、かつてのスペイン艦隊の拠点、カルタヘナから奥地に入ると悪路が続き、オンボロバスは大雨後の橋の手前で動かなくなった。日が暮れる。“不動の4番”川上がユニホームのままバスの屋根の上でねむった。

 

 帰国すると出発前に入っていた多摩川寮の彼の部屋は他選手に“占領”されていて、彼の荷物は廊下に放出されていた。遠征で成績を残さないとこうなる。彼は寮の近くに間借り。寮生でなくなったので寮のごはんは食べられない。角のちいさな店でコッペパンを買って食べた。給料日に、マーガリンを塗って貰うのが楽しみだった。15円。

 

 58年打者に転向。河川敷球場の規則で多摩川グラウンドが市民開放になる日は二軍は休日になったが、国松は飛んで行って町のチームに最敬礼。「10分間貸してください」。心打たれた高知商出身、新人小松敏宏が投げ終わるとお礼に二人で審判。夜はまた練習。トバクなどやっている暇などない。

 

 59年6月3日、国松は北海道シリーズ札幌円山球場での対広島連戦に起用され計7打数5安打。外野にタンポポが咲いていた。遡るが、49年軟式から入団した投手大友工は夜、河原でシャドウピッチング。100回で小石をポケットに。5つ貯まると帰寮した。カチカチと鳴る石の音は勝利への鐘の音とも言えた。巨人軍の伝統は猛練習である。新巨人は伝統を戦い取らなければいけない。 =敬称略=

 

(スポーツジャーナリスト)