中日・山本昌投手(50)が30日、名古屋市内で会見し、現役引退を正式に表明した。昨年9月に49歳25日で白星を挙げ、プロ野球の最年長勝利をマークした“球界のレジェンド”。プロ32年目でユニホーム生活との別れを決めたが、そんな左腕の秘話を、かつて中日の主戦捕手として、もっとも数多くボールを受け、辛苦をともにした中村武志氏(48=韓国・KIA一軍バッテリーコーチ)が明かした。

 中村氏は1984年のドラフト1位で中日に入団。87年に監督に就任した星野仙一氏(現楽天球団副会長)に見いだされ、正捕手となった。その後、2001年にトレードで横浜(現DeNA)に移籍するまで、竜の主戦捕手としてマスクをかぶり続けた。83年のドラフト5位で中日に入団し、88年のドジャース野球留学がきっかけでブレークした山本昌と、同じ時期に頭角を現し、プロ野球選手として同じユニホームを着て、ともに一線級に成長した。

 そんな誰よりも多くバッテリーを組んできた“戦友”の中村氏には、山本昌を語る上で欠かせないエピソードがあるという。それは中村氏が入団してまもないころのことだ。「砂袋にひもをつけ、それを棒に巻きつけて、その棒を両手で持ってクルクルと回しながら巻いていくトレーニングがあるんだよ。古くさいトレーニングでね。中学生ぐらいのときは俺もやったけど、当時、プロじゃ誰もやらない。ところが、山本さんはそれを毎日やっていたんだよ。周りから『あんなことやっても意味ない』『やってもやんなくても一緒』とか、批判のようなことを言われても気にしないでね。自分が『これだ!』と信用したことはコツコツとやり続けるところがあったね。もしかしたら、今でも家でやっているんじゃないかな」

 山本昌の転機は88年のドジャースへの野球留学。そこでスクリューボールを習得してマイナーリーグで活躍すると、その実力が評価され、急きょ日本に呼び戻された。その時の再会について中村氏は「化け物みたいに変わっていた」と笑いながら振り返る。鋭く曲がるスクリューはもちろんのことだが、細かった体がびっくりするぐらいデカくなって帰ってきた。

 若いころの2人は当時、監督だった星野氏に「とにかくよく殴られた」という。中村氏はかつて名古屋市西区堀越にあった屋内練習場で端から端まで殴られ続けた“伝説”を持つ。山本昌も1失点で完投勝利したが、下位打者に本塁打を打たれたことで「あんなヤツに打たれやがって!」と試合後に鉄拳を食らわされたとの逸話がある。

「殴られるヤツは決まっていてね。2人はその役目だった。期待の表れとは分かっていた。それでもやっぱり反発心はあったよ。2人とも負けてたまるか、ベンチを見返してやろうって思ってた。それで結果もついてきたところはあったね。今は殴られたことも笑って話せる。星野さんがいなかったら2人とも(野球選手としては)死んでいた。命の恩人だからね」

 長く一線で活躍してきた山本昌だが、必ずしも順風満帆なときばかりじゃなかった。「最初はスクリューだけで抑えられた。でも、だんだんと相手も慣れてくる。研究もされるからね。なかなか勝てなくなる。そこでカーブの精度を上げようと考えた。制球力をもっとつけようとね。そこから練習では明けても暮れてもカーブばかり。暇があれば腕を振ってイメージをつかむようにしていた。しかも、ユニホームを着ているときだけじゃないんだよ。新幹線で移動のときに駅のホームでもスーツ姿で腕を振っていたときには驚いた。責任感を感じたね」

 長く現役を続けてこれたのは、引きずるタイプじゃないことも良かったのだとも言う。「切り替えがうまい人だった。試合に勝ったら趣味のラジコンを思い切り気にせず一日中やる、負けたら一切やらないとか、自分にご褒美をもうけたりしてね。メリハリをつけていたね。そんな人だから試合後にクドクド言うようなこともなかった」

 愚直に歩み続けたプロ32年間。その積み重ねで山本昌は“レジェンド左腕”になった。