巨人のV9時代に左のエースとして活躍した高橋一三氏が14日午後、都内の病院で死去したことが分かった。69歳だった。2009年に山梨学院大野球部の監督に就任したが、体調不良のため14年4月に退任した。顧問を務めながら療養していたがこの日、都内の病院に緊急搬送され、そのまま息を引き取った。

 巨人のV9を支えた左腕が静かにこの世に別れを告げた。自宅で療養していた高橋氏はこの日、容態が急変して都内の病院に緊急搬送されが、病院で死亡が確認されたという。

 直球と大きなカーブ、スクリューボールを武器に現役19年で167勝をマーク。1969年に22勝5敗で最多勝と沢村賞を獲得。73年にも23勝13敗で2度目の沢村賞に輝いた。右のエース・堀内恒夫氏とともにV9時代の投手陣の中心を担った。

 胴上げ男と呼ばれたほど優勝決定試合に強く、シーズンで5度、日本シリーズで4度と計9度も勝利投手に(日本記録)。虎キラー(巨人時代の通算110勝中34勝)としても知られたが、勝った方が優勝というV9年の73年10月22日の阪神とのペナントレース最終戦でも勝負強さを発揮した。異様な雰囲気に包まれた敵地甲子園球場で冷静に投げて9―0の完封勝利。虎ファンに悲鳴を上げさせた。

 巨人時代は最速150キロ超の本格派。真上から投げ下ろし、リリース後には顔が完全に下を向く独特のフォームが印象的で、左ヒザには常にマウンドの土がベットリ…。カウントを当時の表示で1ストライク3ボールにしながらも打者を打ち取ることが多く、この制球難と名前を重ねて「一三が出た」と自軍ベンチからやゆされることも。また、極端ないかり肩で和服用ハンガーのように見えることから「えもんかけ」のあだ名で親しまれた。

 75年オフに張本勲とのトレードで富田勝とともに日本ハムに移籍。78年に腰を痛めて一度は引退を決意した。速球が投げられなくなったが、スローボールを生かした投球スタイルに変更して復活。81年には14勝6敗、防御率2・94でチームの19年ぶりの優勝に貢献した。古巣巨人相手の日本シリーズでは第1戦と第5戦に先発した。

 83年に現役を引退すると巨人、日本ハムで投手コーチ、二軍監督を歴任。日本ハム時代は柴田保光、西崎幸広、松浦宏明、酒井光次郎、武田一浩らを育て、巨人では二軍監督時代の04、05年に内海哲也にチェンジアップを教えた。その後、エースに成長した。

 09年4月に山梨学院大野球部監督に就任。選手の育成に情熱を注いだ。14年4月に体調不良で監督を退き、顧問を務めていた。13年10月のドラフト会議でエースの高梨裕稔投手が日本ハムに4位で指名され、昨年10月のドラフト会議では主将の田中貴也捕手が巨人の育成ドラフト3位で指名された。

 投手として指導者として活躍した高橋氏。あまりにも早すぎる別れに球界は悲しみに包まれた。

☆たかはし・かずみ=1946年6月9日、広島県生まれ。北川工から65年に巨人入団。69年に22勝を挙げ、最多勝、最優秀勝率、沢村賞などを獲得。73年にも23勝を挙げ、沢村賞獲得。75年オフに張本勲とのトレードで富田勝とともに日本ハム移籍。81年に14勝をマークしてリーグ優勝に貢献。83年に現役引退。ベストナイン2度、球宴出場6度。巨人、日本ハムで投手コーチ、二軍監督を歴任。2009年から14年4月まで山梨学院大野球部監督。現役時代は178センチ、78キロ。左投げ左打ち。